「ヘイ、コーイチ。イッツ・デイヴ...」
と、懐かしい声の電話を受け取ったのは、去年(97年)の夏頃だったろうか。相手はデイヴ・ルミアン。アメリカ西海岸のLAでツィスト・マネージメントという事務所を運営している人物だ。
初めて彼と出会ったのは今から15年も前に遡る83年。おそらく、今のロック・ファンなら、たいてい知っていると思うのだが、場所はイギリスのサマーセット州にある田舎町、ピルトン。ここでほぼ毎年6月に開催されるようになったグラストンバリー・フェスティヴァルだった。
現在はグリーンピースやオックスファムへのチャリティを目的に開催されているこのフェスティヴァルも、当時はより政治的で直接的な反核運動体、CNDへの基金作りが目的に開催されていた。そんな動きを取材していた時に、主催者の農夫、マイケル・イーヴィス氏に紹介されたのがルミアンだ。
確かジャーナリストから転身して、ミュージシャンのマネージメントなどに関わるようになったのがルミアン。その彼が中心となって、79年から82年までアメリカ西海岸で繰り広げていたのが「生存連合」という反核運動体だった。ジャクソン・ブラウンからボブ・ディランといったビッグネームのアーティストを動かして、反核アピールと運動資金作りのために50本ものコンサートやフェスティヴァルを企画。大成功させていたと人物だ。同時に、当時、イギリスの2トーンに対するアメリカからの解答とでも言えるようなバンド、アンタッチャブルズのマネージャーでもあった。このあたりからも想像できるように、昔から彼がスカ&レゲエ・ファンであったことが、10数年後のKEMURIとの出会いに結びついていくのだろう。
加えて、記しておけば、あの83年、その彼がグラストンバリーの主催者、イーヴィス氏にジャクソン・ブラウンを紹介し、結果として、翌84年、精力的に反核運動を続けていたブラウンがグラストンバリーにノーギャラで出演することになったといういきさつがある。
あれ以来、幾度もデイヴとは会っていたし、LAを訪ねると必ずいろんな情報を彼から入手していたものだ。が、私の仕事の中心がイギリスであることも手伝って、音沙汰なしの状態が続たのがここ5年ほど。ところが、突然、いかにも西海岸っぽい訛りのある英語で「俺だよ、どうだい調子は?」と電話がかかってきたのだ。
「いやぁ、実は、もうすぐ東京に行くんだけど、会わない? 信じられないと思うだろうし、僕もそうなんだけど... なんと日本のバンドのマネージメントすることになったんだ」
とりわけ、日本のバンドを聞かないというわけではないのだが、仕事の中心が洋楽。特にイギリス関係が多いこともあって、デイヴからそのバンド(もちろん、KEMURI)の名前を聞かされた時も、当然のようにリアクションはなし。このアルバムを手にしているファンには(のみならず、メンバーにも)実に申し訳ないのだが、正直なところ、あの時点でKEMURIは見たことも聴いたこともなかったのだ。
それからしばらく後に、デイヴが来日。新宿のホテルで再会を果たすことになる。同時に、この時初めてリーダーのフミオに会うのだが、第一印象はやたらと礼儀正しく、まじめな青年。それにしては、足の入れ墨が... と、そこまで言えば大げさだし、入れ墨=不良というのはただの偏見でしかないのはわかっているのだが、(なにせ、この業界にはそういった仲間がうじゃうじゃいる)ワイルドなロックをやっているんだろうなというイメージとは好対照な彼の姿に大いに驚かされたものだ。
「もし、ルーツやオーセンティックなスカが好きだったら、コーイチさん、僕ら、あまり好きじゃないかもしれませんよ」
新宿のお好み焼き屋で食事をしながら、フミオと少し話し時のこと、私がスカの名トロンボーン奏者、リコ・ロドリゲスのアルバム作りに関わったことや、サンドラ・クロスといったアーティストのアルバム制作をしていること、そして、スキャタライツといったオーセンティックなスカに惚れ込んでいることを告げると、フミオはそんな言葉を口にしたものだ。
その翌日だったか、翌々日だったか、記憶ははっきりしないのだが、KEMURIのライヴを初体験するために出かけていったのが新宿ロフトだった。この日の演奏は6バンドぐらい。KEMURIは3番目か4番目に登場している。1曲わずか数10秒で演奏することにこだわっている奇妙なバンドとか... インディで展開する興味深いムーヴメントをここで体験することになるのだが、背筋が震えるほどに衝撃を受けたのはやはりKEMURIだった。
まずは圧倒されたのが、無駄なMCを廃して、なによりも演奏だけで勝負しようとするダイナミックなステージング。このところ、退屈なUKロック勢(なぜか大人気だけど...)に食傷気味になっていたせいか、怒濤のように押し寄せるエネルギーの奔流に完全にKOされることになるのだ。アメリカでスカを中心とした勢力が大きな盛り上がりを見せているのは周知の事実。だが、そういった流行のサウンドとかスタイルではなく、なによりもステージからあふれ出ていたのはポジティヴな歌、姿勢、パワー... そのあたりに一目惚れしたと言えばいいだろう。
同時に、これなら、デイヴが惚れ込むのも無理はないとも思ったものだ。かつて彼が面倒を見ていたアンタッチャブルズもエネルギーいっぱいのバンドだった。それにユニークでポジティヴな姿勢という意味で言えば、ゲイの女性シンガー&ソングライター、フランクの場合がそれに当てはまるだろう。また、過激なメッセージを全面に出したワッツ・プロフェッツや、今回のアルバムをプロデュースすることになったデセンデンツなど、今彼がマネージメントをしているバンドもそんな流れにはいる。
一方で、サウンド的な部分だけではなく、フミオ曰く「PMA(肯定的精神姿勢)」につながるところで、頭をかすめたのが初期のフィッシュボーンやディキシー・ミッドナイト・ランナーズ、レヴェラーズといった、お気に入りのミュージシャンたちだった。おそらく、このアルバムを手にしたKEMURIのファンには(おそらく、メンバーにとっても)なじみの薄いアーティストだろうが、チャンスがあったら、ぜひ聴いてもらいたいと思う。そこに見つかるのは、ただのサウンドやスタイルには収まりきらない、歌の向こうにあるなにか。おそらく、なによりもKEMURIのそんなところに魅了されたのだろう。
そして、いつものように、そういった体験をすると、友人に言いふらし始めるのだ。
「ねぇ、KEMURI聴いた?すごいバンドだよ」
その最たるものが今年(98年1月)に立ち上げたホームページだろう。もし、ネット環境にあるようだったら、ぜひとも覗いてもらいたいのだが、そこに最も多く登場するのがKEMURI。自分でプロデュースしているアルバムの主、サンドラ・クロス以上の頻度で彼らが登場しているのだ。今年の1月25日、渋谷のオンエアー・イーストで開かれた彼らにとって初めてのヘッドライナー・コンサートの模様から3月3日の恵比寿ギルティでのフリー・コンサート。その様子をレポートしているし、それ以外にも、下北沢の小さなライヴハウスで開かれたライヴや、マイティ・マイティ・ボストンズたちと一緒の川崎クラブ・チッタでのライヴも体験している。そんな彼らへの入れ込みが発展してしまったのがアメリカ・ツアー取材だ。
が、それがKEMURIのアメリカでのマネージメント(デイヴ・ルミアン)獲得以前のフミオの動きに端を発しているのが面白いのだ。ことの起こりは、バンドを結成した当時の彼がデモ・テープ片手にアメリカに渡り、さまざまなレーベルやレコード店、ミュージシャン、はたまたライヴ会場でコピーを配っていた頃に遡る。その時、仲良くなったのがブルース・リー・バンドの韓国系アメリカ人、マイク・パークだった。
「彼のレーベルで作っているコンピレーション(『ミスフィッツ・オヴ・スカ2』)に2曲提供して.. それ以来、ずっと仲良くしてもらっているんですけど、彼が『Ska Against Racism』ってツアーをやるから参加しないかって連絡してきたんですよ」
とフミオ。なんでも彼の家を訪ねた時、マイクがそういったアピールをメディアに向けて発信しているのを見ていたらしく、その話しに違和感はなかったようだ。
「ただ、アメリカでの人種差別反対ツアーになんでKEMURIが?って、そんな反応はありましたけどね。でも、アメリカ人って、日本のことなんてなんにもわかっちゃいないから、いいチャンスだと思って、決行することにしたんですよ」
その時の事情をフミオはそんな風に話している。言ってみれば、他人にお膳立てしてもらったのではなく、自ら道を切り開いていったというのがKEMURIらしい。
が、当初、予定されていたのは、その前にウォームアップのような形での数週間のツアーがあり、『Ska Against Racism』を終えたら、レコーディングに入り、うまくいけばそのままワープト・ツアーに参加するというもので、半年以上も日本を離れる可能性があったのだ。それに対し、それぞれのメンバーの個人的な事情から結成以来のメンバーが抜けなければいけないという状況が生まれることになる。
「仕方がないと思うんですよ。こうゆう時期は絶対に来ますからね」
と語っていたのがフミオだ。結局、ここで現在のラインナップがそろう布石が生まれている。
結成以来のメンバーはヴォーカルのフミオ、ベースのツダ。(基本的にこの二人の出会いがKEMURI誕生の根幹だ。)そして、「ただ、バンドをやるっていうんじゃなくて、これしかないと思って加わったんですよ」というドラムスのショージが中核をなしている。ギターのT(タナカユキヒロ)に代わってメンバーとなったのはミナミ。そして、以前から懇意にしていたという元ミュートビート(そして、レ・ピッシュでも活躍中)の名トロンボーン奏者、マッスル・マスイがホーン・セクションの要としてメンバーとなり、トランペットのリョウ、サックスのコバケンがアメリカ行き直前といってもいい時期にパーマネントなメンバーとしてKEMURIに加わることになったのだ。
残念ながら、日本のバンドとしては前代未聞の半年にわたるアメリカ・ツアーは実現しなかったのだが、それでも、3月26日を皮切りに5月10日に幕を閉じるという、おそらく、日本人アーティストとしては最長のハードなツアーを実現しているのだ。そのあたり、詳しいレポートはすでに雑誌で書いているのだが、(チェックしたければIN NATURALのバック・ナンバーを入手すること!)その最後の4日間に参加したのが筆者。日本では考えられないほど過酷なツアーを体験することになる。
移動はデセンデンツのツアー・トラックを借りて、そこにメンバー全員が寝泊まりするというもの。わずかなオフはあっても、そんな時には個別にライヴしたり、約1600kmを移動したり... なにせ、このツアーで移動した距離は22000km。まるで地震の連続のように揺れるトラックに乗って、しかも、雀の涙にもならないようなギャラで街から街へと移動して、100%以上の力を出し切るライヴを続けていくのだ。
が、彼らはそれを屁とも思っていないようなそぶりで続けていたのだ。
「きついのはわかってましたよ。だから、このツアーを決める前には幾度も言いましたもん。ハードだよって」
と、フミオが言えば、ツダはこう語っていたものだ。
「きついのはわかってるし、金も儲からないけど... ってぇか、貧乏になるけど(笑)僕らには絶対に必要だし... だったら、その分、楽しんじゃえって感じですよ」
と、あくまでPMA。そして、どのライヴでも観客をぐいぐいと引き込んでいったのだ。与えられた時間はほぼ20分。でも、それが1時間も感じるような濃密なショーを毎晩繰り返し、アメリカの子供たちをストームに巻き込んでいく。その連続だった。おそらく、その最たるものが日本語の全く分からないオーディエンスに向かって「Aishitemasu」と叫ばしたことだろう。このあたり、7月に発表されたビデオにも収録されているのだが、それを見てもらえれば、彼らがはったりややらせではなく、本当にオーディエンスを魅了したのがよくわかるはずだ。
その結果、ツアーのわずか1/3で780枚のCDを売り、1日に最高80枚を売るという記録を作っている。もし、ツアーの全行程でレコード会社がCDを供給していたら、おそらく、2000枚は売っていただろう。しかも、彼らにとって最悪だったわずか20人のオーディエンスを前に演奏しなければいけなかった時だって、10数枚のCDを売っている。確かに数千人を前に演奏したこともあるのだが、そんなことよりも全くKEMURIのことを知らない少人数の前で演奏し、それほどの反応を勝ち取った方が遙かに素晴らしい。それこそがPMAであり、KEMURIなのだ。それを証明したのがこのアメリカ・ツアーだったように思える。
「僕が大きく変わったのは... どんどん自分を前に出していくことですかね」
ツアーが終わった直後、フミオやツダ、ショージ、リョウと4時間以上にわたって、インタヴューし、話し合ったとき、フミオがそう言ったのが印象に残っている。
「だって、KEMURIのことなんて全然知らない人たちに向かって歌うわけじゃないですか。だったら、前に出るしかないッスからね。実際、モニターの後ろで歌ったことの方が少なかったですもん」
それは他のメンバーだって同じだろう。若さとバカさだけでこんなツアーをしているわけでもなければ、たんまりお金を持ったレコード会社やスポンサーのお膳立てでアメリカに渡ったわけではない。なにかを始め、なにかを残し、なにかを心と身体に吸収しなければいけない。そして、それを形にしなければないけないのだ。
そんな姿勢や経験が凝縮され、反映されているのがこのアルバム。加えて、KEMURIがバンドとして一枚岩のように結束しているのも見逃せない。まるで合宿のように... そして、このアルバムのタイトルが語りかけるように、77日間も寝食を共にして、苦しみと悲しみと喜びを分け合ってきたのが7人の仲間たち。並大抵のものではない彼らの絆と出会った仲間たち、彼らを支えてきたファンや新しいオーディエンスとの体験が色濃く反映されているのがこのアルバムなのだ。
さて、レコーディングが行われたのはコロラド州フォート・コンリンズにあるデセンデンツ(オール)のスタジオだ。ツアーが終わって、翌日にこの街に戻り、早速始めたのがリハーサル。すでにできあがっていた曲もあるのだが、未完成のものを練り上げて、生きた歌にしていく作業が、まるでサウナ風呂のようなリハーサル・ルームで3〜4日も続いただろうか。そんな作業を経て、録音は5月中旬から始まっている。
プロデューサーはデセンデンツ(オール)のドラマーであるビル・スティーヴンソンとギターのステファン・エガートン。これはデイヴ・ルミアンが彼らをマネージメントしていると言うことと、KEMURIが彼らをヒーローのように敬愛していたということから実現している。
実をいえば、録音が開始されるまで、デセンデンツやライヴでこそ生かされるKEMURIのサウンドを考えれば、全てが一発録りのような形で録音されるのだろう... と思っていた。おそらく、KEMURIの面々も前作『リトル・プレイメイト』でやったのと同じような、きわめてライヴに近いレコーディング方法を思い浮かべていたに違いない。ところが、それがとんでもない誤算だと気がついたのが録音初日。まずはリズム録りから始まるのだが、ドラムの位置から、微妙な角度によるサウンドの変化などなど、ビルたちがやたら音にこだわっている。もちろん、そうやって出てくるサウンドに大喜びしていたのがKEMURIの面々。なにせその迫力たるや、とんでもなく強力なのだ。
ところが、ギター、ベース、ドラムスと一緒に演奏を始めると、なにやら納得いかない表情を見せているのがビル。幾度も幾度も演奏するのだが、OKサインが出ないのだ。すでにセッティングを始めてから数時間が経過し、音を出し始めてから限りなく演奏させられているような雰囲気もある。
「ライヴ的なのは好きだけど、もうひとつ、みんながひとつになってないような気がするんだ.... だから、順番に録っていこうよ。」
と言い出したのがビル。結局、メンバーはそれに従って延々と演奏を続けることになるのだ。ドラムの音を録るといっても、ライヴのグルーヴを出すためにつきあわなければいけないのがベースもギター。いつもは「俺は数回しか叩かないよ」と言っているショージも、あくまでいい音とクオリティにこだわるビルに波長を合わせてどんどんシャープなサウンドを叩き出すようになっている。そんな作業が深夜まで続けられたのが初日だった。
「いいことだと思うよ」
そんな状況を目撃して、そう語ったのはマッスル・マスイだ。
「確かに、ライヴで本領を発揮するバンドだけど、これがレコーディングの基本で、本当にいいアルバムを作るためには当然のことなんだよね。いい勉強になるよ」
翌日、ステファンが中心となって始めたベースやギターの録音に関しても、彼がなによりもこだわったのはチューニングだった。
「僕はチューニング・フリークなんだ」
と言う彼がやたら高価なチューニング・マシンを使って、音だけではなく楽器そのものまでをも微に入り細に入ってチェックしている。そして、この日も、やはり前日と同じように深夜に及ぶまで録音が続けられたということだ。
彼らのレコーディングにつきあったのはここまで。残念ながら、全てを目撃することなくスタジオを離れ、日本に戻らなければいけなかった。が、心の中に感じていたのは「絶対に傑作が生まれてくる」という確信だ。そして、それから数週間の後、KEMURIの面々が帰国してわずかの間に届けられたのがマスタリング前のテープ。そこから聞こえてきたのは、前作を遙かに上回る出来のアルバムだ。サウンドは文句なくタイトでシャープ。しかも、まるでKEMURIがひとりの人間であるかのように、全てが有機的に、一体となって演奏されているのがわかる。
それだけではなく、ひとつひとつの言葉が突き刺さるように胸を打つのだ。全14曲のうち、日本語で歌われているのは2曲と、前作よりも1曲増えている。その他は英語だ。が、何語であろうと、そこに叫びがなければなんの響きも意味も持たない。ところが、英語であろうが、日本語であろうが、KEMURIの声がビンビンと伝わってくるのだ。おそらく、それは今回の『Ska Against Racism』での経験から生まれてきたのだろう。「差別」に対する疑問や怒りを歌った『Heat Beat』に始まり、KEMURIそのものを歌った『PMA』など、自らの信念と姿勢を真正面から打ち出した歌で溢れているのがこのアルバムだ。残念ながら、その全てをここで解説していくスペースはない。それは歌詞カードをじっくり読んでもらいたいと思うのだが、これほどまでのアルバムを作り上げたメンバーのひとりひとりに、熱狂的KEMURIファンとして感謝の意を捧げたいと思う。
「欧米のバンドが日本でツアーをやっているのに、なんで日本のバンドが向こうに行ってやれないの? それだけですよ。日本だとか、外国だとか... 関係ないッスよ。それに、成功したとか、しないとか... そんなことを言っていたら、なにも始まらないッスよ。だって、やっと始まったばかりなんですから」
ツアーを終えて、フミオが口にしていたのがそんな言葉。同時に、彼はこうも続けていたものだ。
「不可能なことって、本当はそんなにないんですよ。だから絶対にあきらめない。いつだって、PMAですよ」
そう、その通り。そんな彼のメッセージを最後にこのライナーを締めくくろうと思う。
1998年7月24日執筆
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