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ひょっとして音楽そのものが好きなんじゃなくて、なにか他のものに動かされているんじゃないだろうか… ときどきそう思うことがある。もちろん、人並みに音楽が好きなのは間違いない。だからこそ食費まで切り詰めてレコードを買い、今までに万を超える数のアルバムを聴いてきたんだろうし、こうやって音楽関係の原稿を書くことで生活の糧を得ているのだろう。そして、イヴェントを企画したり、ミュージシャンの招聘を手伝ったり… さらに、ここ数年はアルバムも作るようになってしまったのも音楽が好きでたまらないからだと思う。 でも、よ〜く考えてみると、本当の動機は音楽そのものじゃないような気もするのだ。例えば、初めてものを書き始めた頃、その理由は何よりも言いたいことがいっぱいあったからだ。そのきっかけは、飛行機にも乗ったことがなかった24歳の頃、日本を飛び出してイギリスを中心にフーテンのような生活をしながら、身体で接した事件や体験の数々だった。ライヴを見たり、サウンドシステムに遊びに行ったり… そんななかでなによりも興奮させられたのは、著名なミュージシャンやレコードやライヴそのものではなく、日本で語られることもなく、なにかを生み出していた音楽の現場や人々だったような気がする。 例えば、83年だったか、当時居候していた家の家族と初めて出掛けていったグラストンバリー・フェスティヴァルだ。この時も、出演したブラック・ウフルーやジャクソン・ブラウンより大きな印象を残しているのは、ウッドストックから10数年を経てヒッピー(オルタナティヴと言ったほうが正しいと思うが)文化が消し去られることなく、大きく成長していることだった。また、アメリカ音楽しか聴いたことがなくて、パンクもレゲエも知らなかったのに、そんな音楽が生活に、文化に、社会に、さらには政治にまで大きい影響力を与えていることでもあった。 「パンクは僕らの生き方を変えたんだよ」 ちっぽけな田舎のパブで開かれた無名のパンク・バンドのライヴで集まった聴衆の一人にそう言われた時のショック… そのずっと昔、自分にも同じような時代があったことを思い出し、それを忘れていたのを恥ずかしいとも思ったものだ。 おそらく、書き始めれば、それだけで本にでもなってしまいそうな当時の体験の数々が、今の自分を決定していると思うのだ。実際、当時の気持ちをストレートに書きなぐったのが、今では絶版になってしまった「ロンドン・ラジカル・ウォーク」(新潮社)という本。まだ物書きではなかったあの頃の体験から、フリーのライターになって覗いていった世界や、書かせざるを得なかった人々や出来事がそこに凝縮されていると思ってくれればいい。お世辞にも上手い文章ではなかったが、今も時折、この本を読んだと言われると、嬉しくてたまらないし、このあたりに自分の原点があるのは自分でもよくわかるのだ。 今回、このライナーを書くに当たって、読み直すことになったのが、長らく目にしていなかったビリー・ブラッグの日本でのデビュー・アルバム「ブリューイング・アップ・ウィズ・ビリー・ブラッグ」のライナー。今から10年以上前に書いたこれを読んで、そんな時代のこと、そして、自分自身の原点を再確認できたような気がしている。 思えば、初めてビリー・ブラッグに会ったのは、84年頃。日本に帰ってきてしばらくの間勤めていた会社の関係で使っていたペンネーム、間田三郎に別れを告げ、やっと自分の名前でフリーになった頃でもある。ロンドンに出掛けて、彼の噂を聞くや、レコード店で買ったのが上述のアルバムのカセットだった。それを聴きながら、レーベルに記された連絡先に電話して、彼に会いたい旨を伝えたのが始まりだ。今考えれば、よくも会ってくれたものだと思う。日本からやって来た、どこの馬の骨ともつかない人間に会って、インタヴューに答えてくれるというのだ。しかも、その時、彼のアルバムが日本で発表されてはいなかったし、その予定もなかった。私自身、日本に帰って彼のことを書ける雑誌の目安もなかったのだ。ところが、二つ返事でOK。それがビリーとの出会いの始まりだった。 まずはラジオの公開録音のようなライヴを見て、写真を撮って… そう言えば、この時、彼のローディをしていたのはアンディ・カーショウ。今ではジョン・ピールに次いでイギリスで最も人気のあるDJだったというのがおかしい。そして、その数日後、朝のニュース・ショウに出演する彼につきあって、BBCに行ったり… この時、車を運転していたのはマネージャーのピート・ジェナーだ。後で知らされるのだが、この人こそが、ピンクフロイドを発掘した最初のマネージャー。そして、今では伝説になってしまった、ストーンズ(例のブライアン・ジョーンズ追悼のやつ)やクラプトンを中心としたスーパー・セッションのハイド・パークでのコンサートを主催した人物でもある。さらには、後に、クラッシュやイアン・デューリーのマネージャーにもなるのだが、その彼がポンコツ車を運転してラジオ局を回り、ビリーと一緒に何千マイルも走ってツアーに出ているんだと教えてくれたものだ。 あれから幾度ビリーに会ったことだろう。当時、CND(核廃絶運動)の基金を作っていたグラストンバリー・フェスティヴァルでのライヴ、ハイド・パークで40万人を集めたCNDデモ… そして、そんな動きを受けて友人達と反核を訴えるために組織したアトミック・カフェ・フェスティヴァル出演のための来日ツアー。紀尾井町あたりのちっぽけな公園に集合して、そこから銀座あたりまでデモをした時も、ビリーは先頭に立って歩き、最終的にはデモ隊(といっても、わずか百数十名だったが)をリードする軽四輪トラック(ジープだっけ?)の荷台でギターを演奏しながら歌ってくれもした。みんなが知っている曲を歌おうと、この時、彼が歌ったのはジョン・レノンの「平和を我らに」。おなじフレーズを延々と演奏しながら歌ってくれた様子は今でも脳裏に焼き付いている。 その時のツアーだっけか、一緒に広島に行ったこともある。原爆資料館で開催されていた被爆者の絵を見たとき、涙を見られたくなくて、ビリーとツアー・マネージャーのスミさん(日系カナダ人3世で、ピート・ジェナーの奥さん)、そして僕らがみんなバラバラになってしばらく佇んでいたこともあった。その後、彼は長崎に向かい、やはり原爆資料館に用意されている訪問者用のノートに延々と向かい合ってなにかを書いていたらしい。後に、それを読んだ関係者が感動して、なにかの形で発表されたようなこともあったようだ。 さらには、イギリスで炭鉱労働者のストを支援するためのコンサートで、エルヴィス・コステロと共演した時、あるいは、ネルソン・マンデーラの解放を求めたデモでも幾度も彼を見かけている。また、先日の選挙で地滑り的な勝利を記録することになる労働党に(といっても、当時はそうならなかったのだが)圧力を加え、同時に、彼らを支持するために作った団体、レッド・ウェッジでの記者会見からツアー… 思うに、今まで最も多く顔を合わせ、ライヴを見て、インタヴューをして、個人的にも大きな影響を受けたのがビリー。こうして執筆活動を続けてきた中で、彼こそが最もポジティヴなアーティスト… というより、最も美しい人間だったような気がするのだ。 また、彼のおかげで翻訳することになった「音楽は世界を変える」(ソニー・マガジンズ社)にも大きな影響を受けている。ロビン・デンズローというジャーナリストがずっと追いかけ続けた政治と音楽の関係を記した本で、この中で最も数多く登場しているのがビリー。そのビリーが「これ、読んでごらんよ」というので、読み始めたら、なんとか日本語版を出したくなったというのがきっかけだ。結局、友人の編集者に無理を言って、出版社に交渉。2年近くの翻訳作業の後にわずか2800部ぐらいしかプレスされず、宣伝もされなかったのに、ビリー・ファンの中川敬君(ソウル・フラワー・ユニオン)や作家になってしまった辻仁成君あたりがいろんなところで紹介してくれたものだ。売れていなくても、それで全然収入が生まれなくても、あの作業を通じて、誰にも知られていなかったミュージシャンの素顔や音楽が抱えている無尽蔵の力を思い知らされたことは、自分にとってなによりの財産だと思うのだ。 また、2度目か3度目の来日公演の時、なによりもオーディエンスとのコミュニケーションを大切にするビリーは、東京の渋谷クアトロ公演で私に通訳を依頼したことがある。最初はほんの始まりだけだと思って承諾したのに、結局最後までつきあわされて、大いに恥をかかされたものだ。ステージ上で進行していたのはまるで漫才のような二人の会話。が、後にコンサート・レヴューを読んで、その漫才ぶりが歌の意味を観客に伝える役に立ったのがわかって嬉しくてたまらなかった。政治的であるが故に、ビリーが頭の堅いシンガーだと奇妙な誤解を受けているようなのだが、少なくとも、この時、多くの人たちにそうではないことがわかってもらえたと思うのだ。 以前、ビリーのアルバムのライナーにも書いたのだが、彼ほど暖かく、人なつっこいミュージシャンにいまだかつて会ったことがない。他人に気を使い、礼儀正しく、真剣で、嘘がなくて… 笑ってくれれば、同じ冗談を何回だって繰り返してしまうようなお人好し。彼の人柄の良さを書くだけでこのライナーどころか、1日中でも話し続けていたい気持ちにさせられるのだ。もちろん、それを彼の音楽を判断する材料にしたら正当な批評はできないという人がいるかもしれない。が、そんな人間性こそが音楽に現れるものだと思っている。 しかも、かつてレコード屋で働いていたことのあるビリーの音楽的な間口の広さにも驚かされるのだ。当時はジョン・リー・フッカーが好きでたまらなかったと語っているのだが、彼の音楽を聴いていると、モータウンからカントリー・ミュージックまで幅広く良質な音楽を聴いているというのがよくわかる。もちろん、「まるで目の前に先行が光ったような衝撃を受けた」というクラッシュや「彼が死んだ時、軍隊にいてね。人種差別が当然の連中に囲まれていたけど、僕は泣きながら廊下の掃除をしていたんだ」と説明してくれたボブ・マーリーも忘れてはいけない。あまり知られていないだろうが、この話を聞いた時、ビリーのマーリーに対する敬愛の念がひしひしと伝わってきたものだ。 思うに、彼の口から、そして彼自身の歌から感じるのは、音楽をジャンルではなく、その本質で評価し、愛しているということ。そこには汲めどもつきない、彼の音楽への愛情あるということかもしれない。いつだったか、彼がステージでモータウンの名曲「TEARS OF A CLOWN」を歌った時なんて、あまりの素晴らしさにゾクゾクしたのを覚えている。あの時、ちょっと感じたのは、やはりビリーが敬愛しているエルヴィス・コステロ的なニュアンス。と思えば、ギターなしでヴォーカルのみで歌った曲も素晴らしかった。正確な曲名は覚えてはいないが、ネルソン・マンデーラの解放とアパルトヘイト廃止を訴えたこの曲は、確か、ギル・スコット・ヘロンに関係する女性アーティストたちの曲ではなかったかと思う。 いずれにせよ、ビリー・ブラッグをただ政治的なシンガー、あるいは、アーティストとしてしかとらえられない人がいたら、その人は可哀想だと思う。同様にビリーも可哀想だ。確かに政治的な部分が大きな比重は占めてはいるが、それは人間の本質から生まれた政治であって、政治家の政治ではない。人間性を無視した「主義」の一人歩きでもない。だからこそ、彼には素晴らしいラヴ・ソングが作れて、歌えるのだろうし、心をジンと熱くする政治的な歌が作れるのだ。 さて、そのビリーの久々の(おそらく、9?年のグラストンバリー以来)ステージを見たのは昨年(96年)の夏だったろうか。場所はロンドンのカムデン・タウンとチョーク・ファームの間にある会場で、かつて列車の操車場として使われたところ。2000人ぐらいはゆうに収容できそうなここが満員になっている。日本ではとんと噂を聞かなくなったビリー・ブラッグの久々のコンサートは完全なソールド・アウトとなっているのだ。正直なところ、大いに驚かされたものだ。(さすがだとも思ったけど)しかも、彼が以前よりも一回りもふた回りも大きくなったようにも思える。なにが彼をそうさせたんだろうか… 「ああ、ビリーは幻滅していたよ。レッド・ウェッジがうまくいかなくて、結局、労働党は政権を奪えなかったんだから。彼がどれほど落ち込んでいたか…」 数年前、ピート・ジェナーがそんな話をしてくれたことがある。今回こそ、労働党が勝利を獲得し、18年ぶりに政権に復帰したとはいうものの、レッド・ウェッジが活動を始めた頃、そして、前回と、労働党が支持率を上げながらも選挙には勝てなかったといういきさつがある。実は、それこそが小選挙区制の弊害であり、日本でもその傾向は前回の衆議院選挙区で如実に現れている(こんなの廃止すべきだ!)のだが、いずれにせよ、それがビリーに大きな打撃を与えたのは間違いない。あれほどポジティヴな姿勢を打ち出していたポール・ウェラーが戦線から離脱し、音楽シーンから徐々に希薄になっていったのが政治性。もちろん、完全に消え去ったわけではなく、レヴェラーズやガリアーノなど、その前線で動きを見せるミュージシャンもいたが、レッド・ウェッジ時代ほどのポジティヴな盛り上がりは期待できなくなっていたのは事実だ。 ちょうどのその頃、グラストンバリーでビリーと会っている。その時、彼が結婚したことを知らされ、子供もできるという話も教えてくれた。彼のプライヴァシーに関してはあまり書きたくないのだが、奥さんと前のご主人との間にできた子供とビリーが一緒に遊んでいる様子を見ていると、子煩悩ないい親父になりそうだなと思ったものだ。が、同時に、この日「流し網漁法反対」のTシャツを着てステージに立ったビリーにかつてのかみつくような鋭さがなかったのが気になったのも確か。まさかこのまま彼が戦線から離脱するとは思ってはいなかったが、なにかが彼の中で微妙に変化しているのは伝わってきたような気がするのだ。 さて、それから数年を経て見たのが前述のライヴであり、91年に発表された前作「ドント・トライ・ディス・アット・ホーム」から5年という長いブレイクをおいて聞くことになったのがこのアルバム。ここで、やはりビリーは世界で最も美しく、逞しく、優しく、前向きな人間であることを再確認することになるのだ。簡単に言えば、とんでもない傑作を携えて一段と成長したビリーが戻ってきた… と言えばいい。そして、ここでまたもっともっとポジティヴになならなければいけないことを教えられたような気がするのだ。 アルバムの巻頭を飾るのは「レッド・トゥ・ブルー」。左翼を意味するレッドから物憂いブルーに変わってしまったのかいという問いかけがこの5年近くのブランクを見事に象徴している。「子供ができて、ものの見方が変わってしまったのかい? でも、それじゃぁ、本当に信じていなかったんだね」という意味が込められたこれは、かつての仲間へ向けた彼の挨拶なんだろう。が、彼はここでもその信念が一段と強くなったことを語りかけてくれる。そして、そこに続くのは「心に社会主義を!」とホーン・セクションの入った超ポジティヴなナンバー。(ちょっと青臭いけど)「地平線の向こうまで突っ走るんだ」という彼の決意が聞こえてくる。 「子供ができて、父親になって、生活が全て変わった。それに80年代にはサッチャーがいて、レーガンがいて、敵は明らかだった。一方で、全てがうやむやになってきたのが90年代。でも、わかったのは、なによりも家族であり、愛することであり、愛されること… それを子供たちに伝えることができなくて、他の人たちと意思の疎通ができるわけじゃないか」 と語っている彼の言葉からも「本当のハートのある社会主義」がなになのかがわかる。ここで彼が言うのはヒューマニズムに基づいた社会主義。スターリンや毛沢東とは無縁の、ひょっとして、それが社会主義とは呼ばれなくともいっこうにかまわない彼の現実的な世界観なのだ。 そんなヒューマニズムが如実に反映されているのが「エヴリバデイ・ラヴズ・ユー・ベイブ」であり、優しさとウィットがちらりとかすめるのが、やくざな伊達男を歌った「シュガーダディ」なんだろう。なんとファルセット・ヴォイスまで聞かせるここにクラシックなポップスのエッセンスも漂っている。かつて、なんとポール・ヤングまでがカヴァーした彼のポップ・センスや詩のセンスがここでもきらりと光っているじゃないか。 そして、ニール・ヤング(!?)を思い出してしまったのが「ア・ピクト・ソング」。エレキ・ギター1本でロックする、最もクラシックなビリーのスタイルがニール・ヤングに接点をもっているなんて感じたのは今回が初めてだ。もちろん、アルバム全編を通じて彼が歌っている英語から聞こえてくるのは強烈なロンドンの下町訛り、コックニー。ニール・ヤングみたいだなんてビリーに言ったら、おそらく、腰を抜かすほど驚くだろう。(それに、そんなことを感じるのは、正直、変だとも思う。ハッハ) 巻頭の「レッド・トゥ・ブルー」と同じく、メロディ・ラインが素晴らしい「ブリックバット」も大好きな曲だ。かつて革命家(気取り)だった男のその後のラヴ・ソングって感じだろうか。東西関係の変化を月世界への宇宙競争の終焉と絡めてほのぼのと聞かせるのが「ザ・スペイス・レイス・イズ・オーヴァー」で、いつまでたっても解消されないきたアイルランドの問題を歌った「ノーザン・インダストリアル・タウン」がそこに続く。が、そこに見えかくれするのはイギリスの南北問題。北は貧しく、南は金持ち… ひょっとしたら、これがきたアイルランドに限ったことではなく、イギリス、そして、世界の南北格差も暗示しているのかもしれない。 なるほど、「2月14日」だったのか… といっても、歌からの想像にしか過ぎないのだが、きっと奥さんと会ったのが、あるいは、子供が産まれたのがこの日だったんじゃないだろうか。そう想わせるのが続く曲だ。優しいラヴ・ソングだから、そう想像したんだけど、本当の所はビリーに尋ねてみないとわからない。そして、ほのぼのタッチのカントリー・ナンバーから、なんとスカ・ナンバーで幕を閉じるといった構成だ。 ちなみに、今回、歌詞の翻訳を友人のマイケル・フォーリン(リヴァプール出身ですでに在日18年の着物デザイナー。数少ない英国系日本人である)に手伝ってもらったのだが、「いろんな意味を重ねて想像させるビリーの歌は、奥が深くてよくわからないこともあるんだ。特に、この『キング・ジェームス・ヴァージョン』は難しいね。ビリーに話を聞かないと、本当の意味は僕には分からない」 と、このカントリー・ナンバーについて頭を抱え込んでいた。もちろん、その点に関しては今度、彼にあったときにじっくりとインタヴューしてみたいと思っている。いずれにせよ、ビリーの歌の場合、詩の重要性ばかりが気になってしまうのだが、これほどのサウンドのヴァラエティさが詰め込まれているのは初めてのような気がする。 ということで、ずいぶんと長いライナーノーツになってしまったが、みなさんはこのアルバムをどんな風に聞いただろうか。これまで彼が発表してきた中で、最高傑作! と、思えるのだが、どんなものだろう。いずれにせよ、あくまでポジティヴなのが嬉しくてたまらない。そして、ぐっと大人になったビリーの、噛めばどんどんおいしくなるするめのようなアルバムがこうやって日本でも発表されるようになったことを素直に大喜びしたたいというのが今の心境だ。もちろん、この後、期待しているのはビリー・ブラッグの久々の来日公演。それが実現するよう、心から祈っている。 1997年5月12日執筆 |