CARROLL THOMPSON-Free
なにやらロマンティックな響きを持つラヴァーズ・ロックという言葉が、日本で市民権を獲得したのはほんの数年前に過ぎない。もちろん、そのきっかけを作ったのはジャネット・ケイの大ヒット「ラヴィング・ユー」だった。オリジナルはミニー・リパートンが74年暮れに発表し、翌年5月にビルボードの全米チャートでNo.1となった曲なのだが、おそらく、今ではジャネットの持ち歌としてのイメージの方が強いだろう。それほどのインパクトを持っていたのがあのヒットとジャネットの登場だったように思える。
といっても、もちろん、彼女は新人ではなく、活動歴の長いヴェテラン・シンガー。だからなのだろう。あのヒットが出るまで10年近く、ほとんど噂にもならなかったというのに、一部の熱狂的なファンには彼女がまるで女神のように語られていたこともある。実際のところ、77年に発表されてレゲエ・チャートのトップに躍り出た「ラヴィング・ユー」やその2年後に全英チャートに登場した「シリーゲイムス」など、ラスタ思想や反人種差別闘争と絡んでいた過激なレゲエが全盛を極めていた時代に、彼女の歌った甘く切ないレゲエがどれほどの魅力を持っていたか…… 目まぐるしく変わる音楽の流行の陰で、10数年を経て擦り切れた彼女のレコードを宝物のように愛聴していた人が数多くいることからも、それは容易に想像できる。実は、そんな熱狂的なジャネット・ファンによって、彼女の昔の作品がCD化され、日本での驚異的な成功が生まれているのだ。
が、そもそもラヴァーズ・ロックとはなになのか、マニアックなレゲエ・ファンを除けば、まだあまり知られてはいないようだ。もちろん、それがなにであろうと、音楽が素晴らしければいいのだが、ちょっとぱかり歴史を振り返るのも悪くはない。というので、引っ張り出したのが、今から10年ほど前にロンドンで入手した「イラストレイテッド・エンサイクロペディア・オブ・ブラック・ミュージック(要は、図解入り黒人音楽百科事典のこと)」(サラマンダー社)という虎の巻。ここに記されている「ラヴァーズ・ロック」の項目を参考に説明してみよう。
なんでもコトの起こりは70年代半ば、スカからロック・ステディ、レゲエヘと進化したジャマイカ生まれの音楽が男性ヴォーカリストに独占されていた時代のこと。ロンドン南部で活躍していたプロデューサー、デニス・ハリスが、そんな溝を埋めるようにソフトでスイートなレゲエを作りたいと設立したのがラヴァーズ・ロックというレーベルだった。この当時、UKレゲエ界の鬼才、デニス・ボーヴェル率いるマトゥンビといったバンドをバックに数々のレコードが生まれているのだが、ルイーザ・マークの歌った「コート・ユー・イン・ア・ライ」が75年に大ヒットを記録。それをきっかけにレゲエのメイン・ストリームにロマンティックで心地よいレゲエが登場するようになるのだ。
ラヴァーズをロックするとは、文字通り、恋人たちを揺り動かすという意味で、その背後になにやらエッチな雰囲気を感じなくもない。が、それも間違ってはいない。実際、英国で生まれたこのラヴァーズ・ロックという言葉が世界に広まり、レゲエの本場、ジャマイカの男性シンガー、グレゴリィ・アイザックスがその顔になるのだが、彼の歌い方やステージングのエッチなこと。歌いながら徐々に服を脱ぎ捨て、その度にオーディエンスの女性客から歓声と嬌声が沸き起こるといった光景を体験した者には、その意味が手に取るようにわかる。といっても、そんな甘くメロウなメロディにのって、かなり過激なことを歌うシンガーも多く、ただ単に愛や恋の歌ばかりとは言い難いというのも事実。そのあたりは理解しておいてほしいという気もする。
さて、その「イラストレイテッド・エンサイクロペディア・オブ・ブラック・ミュージック」でジャネット・ケイの3倍のスペースを使って紹介されているのがこのアルバムのヒロイン、キャロル・トンプソン。日本ではなぜかジャネット・ケイ人気が遙かに先行しているが、前述の本を買った当時、英国でヒッピィまがいの生活をしていた私にとってラヴァーズ・ロックを代表するのはこのふたりの女性だったのだ。ジャネットと同じく、70年代後半に数々のヒットを飛ばし、地元英国で「ラヴァーズ・ロックのクイーン」と呼ばれていたのがキャロル。もちろん、どちらがベターだなんて野暮な話はしないし、したくもないが、日本でジャネットが爆発的にヒットしているのに、キャロルがまともに紹介されなかったことに大きな不満を感じていたのはけっして私だけではなかったはずだ。
おそらく、このアルバムが発表されるやいなや、レコード屋に飛び込んで買ってしまったという長年のキャロル・ファンも多いだろう。その気持ちは充分理解できる。一応、マッド・プロフェッサー率いるアリワ・レーべルから92年に「ジ・アザー・サイド・オブ・ラヴ」というアルバムを発表してはいるものの、パジェットが低かったのかどうか、作品の質はもうひとつパッとしなかったというのが正直なところ。UKジャズを代表するサックス奏者、コートニィ・パインのレゲエ・アルバム「クローサー・トゥ・ホーム」で、ゲスト・ヴォーカリストとしてキャロルが歌ったダイアナ・ロスのヒット曲「アイム・ステイル・ウェイティング」を聴いていたファンは、「キャロルがこの程度で終わるわけがない」と悔しい思いをしていたに違いない。なにを隠そう、私もそんなひとりだったのだ。
が、そんな不満を吹き飛ばし、キャロルの実力をあますところなく伝えているのが、このアルバム。その発売前からジャネット・ケイに匹敵するヒットを確信してしまうほどの内容に心を躍らせながら、この原稿を書いているという次第だ。
さて、そのキャロルが生まれたのはロンドン北部に位置するハートフォードシャー州。ジャマイカ移民だった両親が好んで聴いていたのはカウント・ベイシィやエラ・フィッツジェラルドといったジャズで、もちろん、子供の頃からスカからロックスタディやレゲエにも慣れ親しんでいたという。また、教会でゴスペルを歌い、10代に人ったばかりの頃に習っていたのがクラシック・ピアノ。さらに、祖母がクワイアを教えていたことや音楽が身近にあったこともあり、歌うことが好きでたまらないといった子供時代を過ごしている。
といっても、本人によると、音楽を職業として真剣に考えたのは24歳頃で、それまでは趣味でしかなかったというのだ。ところが、そんな本人の気持ちを越えて遙かに彼女のヴォーカルに魅力があったのだろう。まずはボニィM的プロジェクトとして考えられたシュガー・ケインというバンドのオーディションに合格したのが16歳の時。残念ながら、それは形になることなく終わってしまうのだが、彼女が19歳の頃に出会ったジャマイカ人レコード・プロデューサー、レオナード・チンが彼女の人生を大きく変える。彼が当時英国で探していたのは女性ヴォーカリスト。それにたまたま乗っかったのがキャロルだ。まずはカヴァーで「リーヴ・ミィ・オン」という曲を録音。初録音となったそれがシングルで発表されたかどうか、彼女自身も知らないというのだが、ほぱ同時に自ら作詩作曲したという「アイム・ソー・ソーリィ」を気に入った彼が続いてそれを録音。キャロルにすれば、それだけの話なのだが、それから4か月後、その曲がラジオから流れ出てきたというのだ。
「あの時は、本当にビックリしちゃったわ。だって、レコードが発表されたなんてこと、全然知らなかったんだもの。もちろん、すんごく興奮しちゃったってのかしら。しかも、それがヒットしちゃったんてすもの」
いわゆるシンデレラ物語だ。彼女がアッと言う間にスターになり、会計士の卵だったキャロルがプロのミュージシャンとしてのキャリアを積むかどうかの選択を迫られることになる。前述のように、その時点でもまだ明確に決断はしていなかったようだが、彼女の、思惑を越えて売れ始めたのがレコード。「シンプリィ・イン・ラヴ」や「ホウプレスリィ・イン・ラヴ」といったシングルがヒットを続け、そんな曲を集めたデビュー・アルバム、「ホウプレスリィ・イン・ラヴ」がラヴァーズ・ロックの代表作として歴史に残ることになる。そして、ラヴァーズ・ロックのクイーンという称号を獲得。それが81年頃のことだった。
が、当時のレゲエの世界にありがちなのだが、キャロルはそんなヒットからほとんど収益を得られなかったという。結局、後に彼女は自ら制作会社を設立。S&Gレーベルの経済的援助により完成させたのがセカンド・アルバムとなる「キャロル・トンプソン」という作品だ。
「でも、もし、音楽業界で生き残るのだったら、もっと勉強しなきゃって…… そう考え始めたの。いろんな違ったタイプの音楽も学ぶべきだし…… それに、レゲエの世界にはビジネス的にあやふやなことが多くて、それに我慢ならなかったってのもあるわ。でも、音楽は続けたかった。そんな頃、私のヴォーカルを気に人ったって人たちがアプローチしてきたの」
それがヴァージン・レーぺルから登場したフロイ・ジョイというバンドで、84年に発表されたのが彼らのデビュー・アルバムだ。当時、NMEの編集長で、私の友人でもあるニール・スペンサーが「ソウル界の新時代を告げるバンド」と口にしながらベタ誉めしていたこのプロジェクトで、キャロルはラヴァーズ・ロックやレゲエを遥かに越えたヴォーカリストとしての才能を披露している。残念ながら、バンドの中心が兄弟で、音楽的指向性の違いから喧嘩が絶えず、その板ばさみになったのがキャロル。彼女は1枚目を録音した時点でバンドを離れ、新しく男性ヴォーカルを獲得した彼らは、結局、泣かず飛ばずで解散してしまうのだ。ちなみに、そのメンバーが後に結成したのがエヴリデイ・ピープル。彼らが数年前にちょっとしたヒットを記録したのを覚えている人もいるだろう。
が、プロフェッショナルなシンガー&ミュージシャンとしてキャリアを積みたかった彼女はこの頃から、数々のセッション・ワークを経験することになる。そのリストに顔を出すミュージシャンを見れば、ヴォーカリストとしての彼女の才能のみならず、ミュージシャンとしてのキャパシティの広さも即座に理解できるはずだ。レゲエ系のアーティストとして登場しているのはアスワドやマキシ・プリースト。と思えば、ワーキング・ウィークやシャーデーといったジャズっぽいグループも顔を見せている。そのあたりなら、まだ想像できるが、PILからゲイリィ・ムーアやスープ・ドラゴンズという畑違いの音楽に加えてステイーヴィ・ワンダーという超大物の名前まで登場しているのだ。
また、そんなスタジオ・ワークにとどまらず、ライヴではペットショップ・ボーイズやボーイ・ジョージなどのポップ勢のバックで歌い、アルバート・キングやBBキングからコートニィ・パイン、さらには、なんとアート・ブレイキィとまで共演。レゲエからロック、ポップスにジャズやブルースまでを完全に自分のものにしているのがキャロル・トンプソンなのだ。
また、そんな活動の最中にもレコード会社からのアプローチがなかったわけではない。例えば、フロイ・ジョイを離れた後、実はヴァージン・レコードと3回も契約している。実は、手元に当時の12インチ・シングル「ラヴ・ウィズアウド・パッション」があるのだが、結局、担当のディレクターがレコード会社を離れて、まともなアルバムが発表されることはなかったようだ。特に残念なのは、ネナ・チェリィを送り出したヴァージン傘下のサーカ・レーぺルが彼女と契約した時だろう。元ワーキング・ウィークのサイモン・ブースや今を時めくインコグニートのブルーイがプロデューサーとしてキャロルのアルバムを録音していたというのに、EMIのヴァージン買収でリストラが始まり、録音を中断。これが陽の目を見ることなく、消え去ってしまったことがファンにとっては悲しくてたまらないというのが本音だ。
それでも、彼女はくじけることはなく活動を統けるのだ。実際、FMラジオ関係者に絶大な人気を誇ったのがコートニィ・パインのレゲエ・プロジェクトでの「アイム・スティル・ウェイティング」。また、同時期にポール・オークソフィールドのプロジェクト「ムーヴメント98」にも参加して、「ジョイ&ハートブレイク」という曲も録音している。さらに、それを気に入ったシンプリィ・レッドの屋敷豪太によって実現しているのが、日本でもヒットを記録したバシフィスツのプロジェクト。すでに2枚も発表されている彼らの作品や豪太のソロ・アルバムで歌っているキャロルの声が、FMラジオで絶大な人気を獲得しているのをご存知の方も多いだろう。
「パシフィスツのアルバムが日本で売れているのはとても嬉しかったけど…… アルバムとしては不満ね。あれはカラオケ・レコードってのか…… あのアルバムでは、私に選曲の余地もなければ、プロデュースにもタッチできなかったの。いろんな作品のプロデュースもしてきたのに、彼らは私をただセッション・シンガーとしてしか見ていなかったってのかしら。もちろん、ヴォーカリストとしてベストを尽くしているから、その点に関しては充分自信はあるけど」
とは、あのプロジェクトに関して語ったキャロルの言葉だ。一方、彼女がアリワから発表した「ジ・アザー・サイド・オブ・ラヴ」は、かつてからの知り合いであるレーべル・プロデューサー、マッド・プロフェッサーからの依頼で制作したということだ。が、たまたま彼女が契約上自由だった時期に、古くからの録音などを集めたもので、完全に新しい録音ではないとのこと。けっして悪くはないのだが、ファンにとってもうひとつ物足りない作品となったのはそんな事情のせいだろう。
そして、今回のプロジェクトが浮上する。実を言えば、その口火を切ったのが私自身だった。友人のサイモン・ブースやジャズ・ジャマイカのリーダー、ギャリィ・クロスビィを経由してキャロルに接触。最初の反応はあまり芳しくなかったのだが、とりあえず会ってみようということになったのだ。が、実際に彼女と会って、話を始めると、意気投合とあいなり、このプロジェクトがスタートすることになる。
「豪太のプロジェクトも3回やって、コートィ・パインやクリーヴランド・ワトキスと曲作りを始めていて…… ちょうどレゲエのアルバムを作ろうと考えていた矢先だったのよ。それまでにもいろんなレコード会社からアプローチはあったんだけど、私自身が納得した作品ができる状況ではなかったから、契約はしていなかったのよ。なによりもアーティストとして、自分の魅力を完全に発揮できる作品を作りたかった。だから、私の気持ちとこのプロジェクトの申し出のタイミングがピッタリと合ったってのかしら」
アルバムはデニース・ウィリアムスが76年に発表したデビュー・アルバム「私はデニース」に収録され、後に全米No.1の大ヒットとなった「フリー」のカヴァーで幕を開けている。そして、最後を飾るのは、マーヴィン・ゲイとダイアナ・ロスのデュエットで、やはり大ヒットとなった「ユー・アー・エヴリシング」。その他、数々のカヴァーが収録されているのだが、売れ線狙いというよりは、ラヴァーズ・ロックがカヴァーを中心に生まれたという事情が背景にあるからだろう。いずれにせよ、今回のプロジェクトでは、そんなカヴァーの選曲に関して、彼女が完全に主導権を握っている。彼女が言うところのカラオケ・アルバムとは全く違うのだ。
「例えば、カーベンターズの「クロース・トゥ・ユー」だって、もうずっと長い間私がカヴァーしたくってたまらなかった曲なの。それにブレッドやイーグルスといったウェストコーストのバンドやフリートウッド・マックも大好き。だって、彼らが作っているのは本当に素晴らしいポップ・ソング。だから、そんな意味でもこのプロジェクトは楽しくてたまらなかったわ」
実は、今回のアルバムに収録されている曲の他にも、10CCの「アイム・ノット・イン・ラヴ」やニコレッタ・ラーソンの「ロッタ・ラヴ」なども録音していたのがデモ・テープ。そのあたりから、彼女の音楽的なレンジの広さも充分理解できるだろう。さらに、自ら数々の作品をプロデュースしているという彼女の才能の腸物か、アレンジなどに関しても十二分な考察がなされている。
「スリー・ティグリーズの「ウェン・ウィル・アイ・シー・ユー・アゲイン」でのストリングス・アレンジなんて、ホントに素晴らしいと思うの。だったら、それを保ちながら、レゲエのタッチを与える方がいいと思うし…… コード進行だって、完成されている曲が多いと思うの。それに、これをきっかけにR&Bやジャズ的なアプローチを持った新しい作品にも挑戦したいと思っているの」
おそらく、そんなところから生まれたのがコートニィ・パインとの共作による「ネヴァー・ビー・ロンリー」だろう。彼の「クローサー・トゥ・ホーム」やそのリミックス・アルバムに収録されている曲だが、それがここでは全く違うアレンジで新しい命を与えられている。また、クリーヴランド・ワトキスと共作した「タッチング・ザ・スカイ」の出来も文句なし。ジャズやソウルっぱいエッジも持ったこの2曲は英国のジャズ・シーンを語る上で欠かせない曲となるはずだ。
その他にも、大いに驚かされたのがビリィ・ホリデイの名曲「ラヴァー・マン」。実を言うと、このアルバムに先立つ9月下旬に発表されたジャズ・ジャマイカのアルバム「ザ・ジャマイカン・ビート」でゲスト・ヴォーカリストとして参加する予定だったのがキャロル。そのアルバムでジュリィ・デクスターが歌っているコール・ポーターの名曲、そして、ヘレン・メリルのクールなヴォーカルで知られる「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」を彼女が歌うはずだったのだ。残念ながら、契約上の問題でそれが実現できなかったのだが、おそらく、そんなところから生まれたのがこのアイデアだったのだろう。ジャズとレゲエが見事に合体したこれはキャロルが単に素晴らしいヴォーカリストだけではなく、非凡な才能を持ったアーティストであることをも語りかけているように思えるのだ。
また、クラシックなレゲエやそのルーツのスカを思い起こさせるのがデルロイ・ウィルソンの名曲「ダンシング・ムード」に似たタッチの「ムード・フォー・ラヴ」や「クレイジー・フォー・ユー」。マニアックなジャマイカ音楽ファンも唸らせてしまうのがこのあたりの曲だろう。それに「オンリー・ナチュラル」や「ドント・ギヴ・アップ」に「プリーズ・ゴー」といったオリジナル・ナンバーの仕上がりも予想以上。まさにキャロルの才能を完全に花開かせているのがこのアルバムだと言って間違いないだろう。
「つい最近、ジャマイカ音楽の歴史を集大成したアルバムのボックス・セットを買ったんだけど、そこにフィーチュアされているのって、ほとんどが男性なのよね。実際、女性はほんのふたりだけ。これって、絶対におかしいと思うの。だから、マキシ・プリーストに対抗できるような女性アーティストとして軌跡を残せるような…… そんなミュージシャンにならなきゃって心に決めているの」
と語っているのがキャロル。その第一歩として全力投球したのがこの作品だ。それをどう評価するかは、もちろん、リスナーの判断に委ねるしかない。が、少なくとも、長年にわたって彼女を慕い続けた、隠れキャロル・ファンにとって、これがなによりものプレゼントになるのは間違いない。ただ、そんなファンから始まって、これがジャネット・ケイと並ぶほどの大ヒットとならなければとも思う。そうなることを願って、このライナーの幕を閉じようと思うのだ。
1994年10月4日執筆 To the Top page
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