初めて、自分の写真がジャケットに...

 このアルバムのジャケットに使用されているのは、ライナーに書かれているインタヴューをやった直後に撮影したタンタンの写真だ。これはちょうどリハーサル・スタジオの出口のあたりで、この奥で彼とアスワドがリハーサルをしていたということ。そこで彼にペットを吹いてもらって、この写真を撮っている。露出をあけて、深度を浅くしているのでが、この時、たまたまこちらに向いて歩いてきた人がいいぼけ具合になって、この作品が生まれている。

 これまで幾度となく自分の写真がジャケットに使われたことはある。が、素材としてデフォルメされたり、インナーや裏面での写真など、フロント・カヴァーではなかった。そんなこともあり、実に嬉しかったものだ。でも、ギャラは... いつもながら、レコード会社から受け取るギャラはめちゃくちゃ安い。それに、ライターがメインだと、みんな思っているようで、写真家としては見てもらえないという現実もある。まぁ、本人も写真家だとは思ってはいないが、作品は作品だからなぁ... それもないような気がしないでもない。ただ、仲間の写真家の作品と比べると、「写真家だぁ」というのには、ちょっと無理があると思うが、並の写真なら、誰でもとれるからな。

 ちなみに、このライナーを書いていた時点では明白にはなっていなかったのだが、このアルバムの最後に収録されている「TRIBUTE TO DO DRUMMOND」が、今もよくわからない。一応、alternative takeと記されているし、本人もこれがその曲だと語っているのだが、本編に収録されているものとは違う曲だし... 少なくとも、そう聞こえる。が、向くから送られてきたテープにはそう記されてあったという、訳の分からない曲。が、いずれにせよ、そのおかげで未発表曲が1曲増えてしまったわけだ。素直に喜びたい。

 また、ザ・ピーナッツが『情熱の花』として録音していた、クラシックの名曲を同じように取り上げているということもあり、彼にザ・ピーナッツのCDをあげたところ、めちゃくちゃ気に入ってしまった。本当は、ザ・ピーナッツの曲の数々をスカ〜レゲエでカヴァーしたトリビュート・アルバムを作りたいのだが、アプローチしたレコード会社にはことごとく断られてしまった。「そりゃあ、面白いけど、売れませんよ」だって。わかってぇねな... と思うことしきり。でも、いつかやってみたいね、このプロジェクト。

98年3月9日記す。

EDDIE "TAN TAN" THORNTON-Jumpin'〜Musical Nostalgia For Today〜

「ハロー、マイ・フレンド!」

人なつっこい笑みを満面に浮かべて、いつもこんな言葉で周囲の人間に声をかけまくっている。そんなトランペッター、タンタンと初めて言葉を交わしたのは84年12月。当時、スティール・パルスと共にUKレゲエのトップ・バンドとして圧倒的な迫力を持っていたアスワドが、今も語り草となっている驚異的な初来目公演を実現した時だった。当時の彼の印象と言えば、ラスタ指向のメンバーに囲まれて「俺はクリスチャンだ」と四六時中文句を言っていたヘンなオッチャンとでも言えばいいか… 群を抜いたトランペッターというより、そんな印象の方が強かったものだ。

 実を言えば、あの当時、スカに対する認識も希薄だったのがその理由かもしれない。すでに日本て発表されていたこのアルバムのオリジナル『ミュージック・ノスタルジア・フォー・トゥデイ』も知ってはいたが、さほど関心がなかったのだろう。インタヴューをすることもなく、彼らを見送っている。後に、これを深く反省することになるのだが、なにはともあれ、タンタンとの出会いはこうやって始まっていったのだ。

 そして、その翌年10月に英国西部のブリストルでアマズル(懐かしい!)のライヴを見た時、例によって例のごとく、「ハロ一、マイ・フレンド!」とタンタンに声をかけられることになる。あの人なつっこい表情は相変わらず。メンバーと比へれば、圧倒的にオヤジなのに、それを全く意に介さないような顔で「あ〜でもない、こ〜でもない」と、ここでも叫ぴまくっている。これも相変わらず。あれ以降、主にアスワドのライヴを中心に、幾度彼と顔を合わせたことか… 結局、レゲエ界のトランペッター… といえば、即座にタンタンの顔を思い浮かべるようになったのにはこんないきさつがあった。

 それから数年間、あまり顔を合わせることがなかったタンタンと、久々に言葉を交わしたのが昨年10月。パリでたまたま見ることになったジャズ・ジャマイカのライヴでのことだった。キャパシティは400前後と、小さい会場ながらも、立ち見どこるか、そんなスペースもないほどギッシリ満杯となったここで大熱演していたのがジャズ・ジャマイカの面々。残念ながら、マイケル・パミィ・ローズは体調が悪く、この時は、若手のブライアン・エドワーズ(94年6月現在、アスワドのホーン・セクションで活動中の彼も正式にジャズ・ジャマイカのメンバーとなっている)がサックスで、また、ドラマーとして、リーダー、ギャリィ・クロスビィの息子、ダニエルも顔を見せていた。そのなかで、炎のような響きを持つトランペットを鳴らしてウケにウケていたのがタンタン。「あれ〜、久しぶりだねえ」と、楽屋であいさつすることと相成ったのだ。

 結局は、あの再会がこのアルバムのCD化実現に結びついている。ロンドンで活躍するお馴染みのDJ、ギャスを中心にスカを日本に紹介し始めてずっと気になっていたのが、タンタンにとって現在のところ最初で最後のソロ・アルバムとなるこの作品。以前はラフトレードから発表されていたのだが、その倒産と共に入手不可能となっていたからだ。まずはジャズ・ジャマイカのデビュー・アルバム『スキャラバン』の国内発表をアレンジし、そのプロセスて浮上してきたのがこのアルバムのCD化だった。

「権利はもうワシのだから、もし発表したいんだったら、大丈夫。ノー・プロブレム」と語るタンタンの言葉を、現在、ラフトレードの作品を続々とCD化している日本のレコード会社の担当者に確認。そうやってこのアルバムが陽の目を見ることになる。

 また、嬉しいことにはあの作品を発表した80年頃にアスワドのメンバーと録音していたのがここに加えられることとなったボーナス・トラックの5曲。ファンにとっては、文字通りの大きなボーナスた。しかも、うち1曲はその昔、日本のポップス&ジャズ(と紹介してもいいだろう)を語る時に欠かすことのできないザ・ピーナッツが、『情熱の花』というタイトルで発表していた曲。また、名曲中の名曲、ケン・ブースの『エヴリシング・アイ・オウン』も収録され、全17曲がここに収録されているのだ。

 さらには、これをキッカケに英国でもこの作品のCD化が決まっている。ただ、残念なのは、『ミュージック・ノスタルジア・フォー・トゥデイ』というタイトルが『ジャンピン』に変更され、マスター・テープの破損が原因で、オリジナルに収録されていた『君を待つ心』『マジック・アイズ』『ヴェニスでトロット』に『プリンセス』はカットされていることだろう。が、日本盤は、アナログからテープ起こしをしてその4曲も収録。いわば、日本のみで完全盤が発表されることになっている

。  ちなみに、このアルバムのCD化に関し、「ワシャ、ホントはタイトルを変えたいんだなあ。『フリー・アット・ラスト』ってのがいいな。だって、南アフリカでやっと黒人が選挙できて、マンデーラがやっと大統領になったんだから」と、そんな言葉を口にしていたのがタンタン。なにがどうなって『ジャンピン』を選んだのかといった事情はよくわからないが、不朽の名作『ミュージック・ノスタルジア・フォー・トゥデイ』が再び陽の目を見たことには変わりはない。素直に喜びたいものだ。

 さて、「ザ・ビートルズやローリング・ストーンズとも演奏していた」とか「ジミ・ヘンドリックスとアパートをシェアしていた」といった断片的な情報はあるものの、謎に包まれていたのがタンタンの略歴。その真相をつかもうと、実現したのか彼とのインタヴューだ。時期はこの5月下句。4年ぶりに新作『ライズ&シャイン』を発表したアスワドのリハーサルの合間にタンタンを訪ねている。その時の会話を下に彼の生涯を簡単に紹介してみよう。

「タンタンってのは、オヤジから引き継いだニックネームなんだな。ジャマイカじゃ、ワシの名字をまともに発音できないんだな。舌を軽く噛んで発音するソーントンのthが灘しくて『タンタン』になっちゃったのさ」

 というタンタンが生まれたのは… 定かではない。なにせ本人が『ワシはミュージシャン年齢で50歳だあ。それ以上年を取らないんだなあ、これが」と頑として口を割らないからだ。が、初めて楽器を手にしたのは50年頃で、その当時10歳だったというから、60歳代半ばと見るのが正しいだろう。精肉店を営む父親が亡くなった頃に音楽を始めているとのことだ。

「アルファ・スクールに入ったんだ。音楽を勉強するところはここしかなくて… カトリックの尼僧か運営している学校で、不良少年の更生施設でもあったけど、音楽学校でもあって… ドン・ドラモンドやトミィ・マクックとか、スキャタライツのみんながここて勉強していたんだあ」

 まずはチューバを手にするのだが、それが面白くなくて即座にトランペットに転向。学校ではクラシックのみを教えていたのだが、それに満足できなかった彼らはビバップやジャズに向かうのだ。ここで10年を過ごした彼はオーケストラなどでクラシックを演奏するかたわら、前述の巨人たちと一緒にビバップやジャズ、R&Bを演奏しながらスカ黎明期を過ごしている。

「ジャマイカを離れたのはドン・ドラモンドがスカを創造した2か月前だったんだなあ」

 その誕生には諸説があるが、ともかく、彼は55〜56年頃に英国に移住。まずはドイツ各地でジャズを演奏。毎日夜の8時から朝の4時まで働き、月に4日の休みに英国の家族の下に戻っていたという。

「当時のイギリスには仕事がなかったから。でも、スタジオ・ミュージシャンとして、ビートルズやストーンズ、ロッド・スチュワートにジミ・ヘンドリックス… みんなと仕事するようになったんだ」

 また、当時の中核になったのがジョージィ・フェイムのバンド、ブルー・フレイムス。彼の在籍時に「イエイエ」「ゲット・アウェイ」に「ボニィ&クライド」の3曲を全英チャートのトップに放り込んでいる。そして、プリンス・バスターの上陸と共に60年代後半の英国でブルービート(レゲエとスカの中間のようなもの)が大ブームとなり、そのほとんどのレコードでタンタンのトランペットが聴けるというのだ。さらに、自己のグループ、アサイラムを結成し、アメリカのR&Bやソウル系のバンドのバックで演奏。70年代になるとアスワド結成から今日に至るまで、そのホーン・セクションの中核として活動を続けてきている。

「レゲエってえのは赤ん坊の音楽だあ。簡単さあ。アスワドも貧乏で… 全然ギャラを払ってもらえなくて、趣味でやってたんだ。そうだなあ、トランペッターとして影響を受けたのは… クリフォード・ブラウンにディジィにマイルス。特にクリフォードの『WARM』ってのが最高だわ」

 と、超ヘヴィなパトワ(=ジャマイカなまりの英語)で語られるこのインタヴューは延々と続いてゆくのだが、それはまたの機会に紹介するとして、そんなタンタンのジャズ指向がてきめんに形になっているのがこのアルバムだ。『夏の日の恋」『オールドマン・リヴァー』に『ナイト・トレイン』といったジャズ界では御馴染みの曲に、強力なスカ指向を打ち出した『ドン・ドラモンドに捧ぐ』などでも唯一無二のソロを聴かせている。スカからレゲエにラヴァーズっぽい曲までが網羅され、その底辺に脈々と流れるのがジャズ。これこそジャマイカン・ミュージックを語る時に欠かすことのできない名作だといってもいいだろう。

 さて、もうスペースがなくなってきたが、この10月にジャズ・ジャマイカのメンバーとしてスカ・エクスプロージョン出演のために来日するのがタンタン。そのライヴでこのアルバムの曲も演奏してほしいと思っているのは私だけではないだろう。もちろん、それほ6月下句の渡英時にリクエストしている。9月発表予定となっている、ジャズ・ジャマイカのジャズ・プロジェクト『ブルーノート&ブルー・ビーツ』に収録されるアート・ブレイキィの名曲『モーニン』や『サイドワインダー』のスカ・ヴァージョンと一緒にタンタンの曲が演奏される可能性は極めて大きいと記しておこう。

 また、同じジャズ・ジャマイカのメンバーの作品で、まだCD化されていないのがリコ・ロドリゲスの『マン・フロム・ワレイカ』に『ザット・マン・フォーワード』や『ジャマ・リコ』。今のところCD化の予定は皆無ということもあり、スカ・ファンや業界関係者は各レコード会社に強力な圧力をかけるべきだろう。こんな名作か倉庫なんぞに埋もれているってのは犯罪以外の何物でもない。そうは思いませんか?

1994年7月2日執筆

PS:6月29日にインタヴューしたアスワドのブリンズリィ・フォードによると、彼らの父とも言えるタンタンの新作をアスワドのバックアップの下に作ろうと真剣に考えているとのこと。実現すれば… またジャマイカ音楽史に残る名作が生まれるような気がするのだが、どんなものだろう。

To the Top page