MARCEL AZZOLA-L'accordeniste

 今からlO数年前、スイスのベルンから夜行列車でパリに入ったことがある。あのターミナルが北駅だったが、東駅だったか… 記憶は定かではないが、初めて訪ねたパリの光景は今も脳裏に鮮明な映像を残している。だとり着いたのは人影もまばらな早朝で、まだ日が昇って間もない時間たった。まずは、長旅の疲れを癒そうと入ったのが駅前のカフェ。きびきびと立ち回るギャルソンにクロワッサンとカフェオレを注文して、考えたものだ。「さて、どこへいこっか…」

 なんの予定もなければ、行く当てもなく、金もない。そんな旅だからこそできたんだろう。結局、彼女の言葉を受け入れて、とぼとぼと歩き始めていた。ガイドブックもなければ、地図もない。ただの風まかせだ。一日の始まりを告げる喧噪に溢れたマーケットをくぐり抜け、石畳の路地裏を通りすぎる。両側に並ぶカフェから聞こえてくるのは、コーヒーを飲みながら、あ〜でもない、こ〜でもないと大げさな身ぶり手ぶりで話し込む人々の声。右も左もわからないパリで、「あれはなにかな」と問えば、彼女の返事はいつも「さあて、なにかしら」だった。やたら大きな教会に出くわして… それがノートルダム寺院だと知ったのが、建物の真ん前で案内を見た時だったという笑い話もある。

 が、それがなにであってもよかった。パリの魅力はガイドブックに登場する名所旧跡ではなく、訪問者をなにやらセンチメンタルでロマンティックな気分にさせてくれる街の表情なのだ。モンマルトルのちっぽけなカフェで観光客相手に演奏される素人っぽいシャンソンやポンピドー・センター前で小銭を集める大道芸人… あるいは、猥雑な雰囲気が漂うピガールや自由な空気を感じるカルチェ・ラタン、セーヌ川のゆったりとした流れやコンコルド広場から凱旋門へ続くシャンゼリゼの並木道と、そのどれもがパリの魅力を語りかけている。

 それは学生時代に聞きかじったシャンソンで垣間見た世界でもあった。バルバラにブリジット・フォンテーヌやジョルジュ・ブラッサンス… 初めてのパリで、セーヌ川にかかる「ミラボー橋」へ出かけたのも、レオ・フェレがそう題されたあの名曲をどんな気分で歌っていたのか確かめたかったからだ。流れる川面を見つめて、過ぎ去る人生を思う… あの詩が語りかけるとうり、セーヌ川をぼんやり見ていると、なぜかそんな感傷的な気分になったものだ。

 また、ロートレックやゴーギャンにゴッホといった数々のアーティストが芸術諭を闘わせ、その昔好きだったサルトルとボーヴォワールが哲学を諭じた街… パリという言葉を耳にして沸き起こるイメージは限りない。レジスタンスからボヘミアンにヒッピィに5月革命… 今までに幾度も繰り返して見てきた名作映画『カサブランカ』でリックとエルザが恋に落ちたのもパリ。あるいは、マイルス・ディヴィスが音楽を担当した映画「死刑台のエレベータ」…哀 愁や享楽に退廃といった雑然とした人間的な体臭にまみれて、なおかつ美しさを失わない不思議な魅力を持つ都市… それがパリのように恩えるのだ。

 初めてミュゼットという音楽を聴いた時、即座に思い浮かべたのがそんなパリのイメージだった。今から2年ほど前だろうか。輸入盤屋で手にしたのが『パリ・ミュゼット』と題されたアルバム。ギターとアコーディオンがジャケットに顔を覗かせるこの作品から流れ出てきたのは、パりに生きる人の喜怒哀楽をそのまま詰め込んだような素晴らしい音楽だった。

 いわば、一目惚れならぬ、一聴惚れとでも言えばいいのか… あれ以来、毎日のようにミュゼットを聴き、アルバムを買い集めていた。リシャル・ガリアーノやダニエル・コランにエンリケ・ウガルト… もちろん、そのなかにはこのアルバムの主、マルセル・アゾーラの「ヴァルス・ブルース」(82年と86年録音の作品を集めたもの)も含まれている。といっても、この時点では、ミュゼットがいったいなになのか… そんなことは皆目わからなかった。ただ、ミュゼットに重なったのは、無限に広がるパリのイメージ。それに魅入られてしまったのだ。

 そして、それが昨年10月のミュゼット取材に発展する。その時会ったのが、日本でもちょっとしたヒットとなった「パリ・ミュゼット」のプロデューサー、パトリック・タンダンとフランク・ベルジェロだった。彼らとのインタヴューは『ラティーナ』という雑誌に発表しているのだが、そのなかで彼らがミュゼットを「都市の伝統音楽」と呼んでいたのが印象に残っている。通常、伝統音楽と聞いて思い浮かべるのはレコード産業や流行から置き去りにされた田舎で細々と生き残る音楽。ところが、ミュゼットはパリという都会でこそ成熟できた混合音楽だというのだ。

 そのきっかけを作ったのが産業革命による都市への人口流入だった。19世紀初頭に始まり、1860年代にピークを迎えたのが民族の大移動。その時、フラシス中部山岳地帯のオーヴエルニュ地方の人々がミュゼットの原形をパリにもたらしたと言われている。彼らはバスチューユ周辺に住み着き、キャブレ(ミュゼットとも呼ばれる)というバグパイプを使ったダンス・ミュージックを演奏。それがバル・ミュゼット(ミュゼットのダンス・パーティ)だった。そして、やはり移民としてパリに流れ込んできたイタリア人のアコーディオンがそこに加わり、1920年代になると、蛇腹のついた奇妙な楽器がミュゼットと顔になってゆくのだ。

 同じ頃、そうして生まれたバル・ミュゼットにマヌーシュと呼ばれるジプシィの血が流し込まれる。もちろん、この時期に最も重要な役割を果したミュージシャンがジャンゴ・ラインハルトだ。マルセル・アゾーラのこのアルバムにも客演しているステファン・グラッペリがジャンゴと活動していた第一期が20年代後半がら30年代末期。アコーディオンのみならず、ギターやヴァイオリンが大きくフィーチュアされるようになったミュゼットがこの時期に完成されたと見るのが正しい。

 おそらく、そんな事情が「パリ・ミュゼット」のプロデューサーをして「都市の伝統音楽」だと言わしめたのだろう。ミュゼットとは、いわば、フランスの民謡からジブシィ音楽、マズルカからポルカ、スイング・ジャズがパリという坩堝で複雑に絡みあい、発酵した斬新な都市音楽なのだ。が、残念ながら、50年代のロックンロールの登場で、ミュゼットは衰退を余儀なくされる。それに拍車をかけたのが、ミュゼットのミュージシャンのジャズ指向だった。アドリブを多用した彼らの演奏がダンス・ミュージックには不向きになったがらだと言われる。

 が、それでも、ミュゼットが死に絶えることはなかった。数多くのミュージシャンはシャンソン・シンガーのバックで演奏し、マイナーながらも独自の活動を展開。全盛期のように数多くのアルバムが録音されることはなかったが、ミュゼットは確実に進化していたのだ。そんなシーンを申し分なく伝えてくれるのが『パリ・ミュゼット』だった。そこに収録されていたのは古典的なミュゼットのみならず、斬新な実験作品の数々。それはミュゼットがレトロでもノスタルジィでもないことを我々に雄弁に語りかけているのだ。

 もちろん、そのなかに顔を見せているのがマルセル・アゾーラ。彼も進化したミュゼットを演奏している素晴らしいアコーディオニストのひとりだ。『VOL.1』ではパーカッションを多用してアフリカ色を強調した〈アフロ・ミュゼット〉を演奏。ミュゼットがまだまだ無限の可能性を秘めていることを我々に伝えてくれる。また、〈冴えない男のポーカー〉では華麗にスイングするビバップ・ワルツを、また、〈パニック〉ではかなり古典的なミュゼットを演奏。さらに、「VOl.2」でも〈激情〉や〈甘い想い〉で貫禄の演奏を聴かせ、ミュゼットの世界で彼が実に重要な地位にいることが伺われる。

 さて、そのマルセル・アゾーラは1927年7月10日生まれのイタリア系フランス人で、現在66歳。レコード会社からの資料や渡辺芳也著作の「アコーディオンの本」(春秋社)によると、6歳でヴァイオリンのレッスンを受け始め、その数年後にアコーディオンに転向したということだ。マダール・フェレーロという人物の下、彼はアルベニスやシューマンにサン・サーンスなどを学んでクラシックの基礎を習得。11歳でプロのアコーディオニストとしてデビューしている。彼が室内楽団などでも演奏しているのはそのあたりが理由らしい。

 40代終わりまでの彼の演奏は、数多くのシャンソン・シンガーのアルバムで聞くことができる。ジュリエット・グレコやバルバラにジャック・ブレルにイヴ・モンタンと、かなりのセッションを経験。また、50年代にはスタジオ・ミュージシャンとしてフランク・ブールセルやポール・モーリア、ミッシェル・ルグランらと数々の映画音楽を録音している。ジャック・タティの三部作「ぼくの伯父さん」(58年)に「プレイタイム」(67年)や「ぼくの伯父さんの交通戦争」(71年)、さらには、ヌーヴェル・ヴァーグの先駆者、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の代表作『仁義』(70)やジャズ・ファンにはお馴染みの「ラウンド・ミッドナイト」(86年)を撮ったベルトラン・タヴェルニエ監督の「Le Juge et L'assassin」(75年の作品で日本未公開)などなど… おそらく、アゾーラは知らなくても、そんな映画で彼のアコーディオンを聴いたことのある人も少なくはないはずだ。

 そのマルセル・アゾーラが大きなショックを受けたのがデューク・エリントンの「ソフィスティケィテッド・レディ」の譜面を見た時だったと言われている。それがいつのことだったのか、資料では定かではないが、それ以来、彼はチャーリー・パーカー、セロニアス・モンク、ビル・エヴァンスなどを聞きまくったというのだ。アゾーラをミュゼット・ミュージシャンとして捉えるか、あるいは、ジャズ・アーティストと見るか… 縦横無尽で自由奔放な彼のインブロヴァイゼイションとスイング感を目の当たりにすると、そんな疑問にどう答えていいのか戸惑ってしまうのだが、いずれにせよ、音楽のジャンルなんぞ、あってないような代物だ。そんなものを気にする必要はない。ただ、ミュゼットがレトロなノヴェルティ・ミュージックだといった発想だけは捨ててもらいたいものだ。

「エディット・ピアフヘのオマージュ」としてこのアルバムが録音されたのは昨年10月から11月。ちょうど、私がミュゼットの取材のためにパリを訪れていた時期に重なる。そう言えば、あの時、フナックやヴァージン・メガストアなどのレコード店でエディット・ピアフが大きくディスプレイされていたものだ。というのも、彼女が他界したのが63年10月11日。昨年(93年)が没後30周年に当たるからだ。EMlからはピアフのボックス・セットや2枚組や1枚ものベスト・アルバムが同時発売され、ホリドールからは未発表音源を集めた『メモリアル・アルバム』も出ている。同時に、数多くのパンク系ロック・バンドがピアフの作品をカヴァーしたアルバム『MA GRAND MERE EST UNE ROCK-EUSE(俺のおばあちゃんはロック歌手)』を録音するなど、数々のトリビュート・アルバムが発表されている。日頃、シャンソンには縁のないロック・ファンやジャズ・ファンも、そんな話を聞けば、ピアフがいかに偉大なアーティストであったかがわかろうというものだ。

 残念ながら、ここでピアフの生い立ちを説明するスペースはないが、一般的にビリー・ホリデイに匹敵するのがピアフだと言われている。もちろん、そんな書い方が安易に過ぎるのも確かだ。が、彼女の波乱の人生を垣間見ると、それも言い得ている。ただ、没後30年の今も年配だけではなく20代のファンが多い彼女をシャンソン界のシト・ヴィシャス(!?)だと言ったら笑われるだろうか。いずれにしても、アゾーラのこのアルバムを機会にピアフを聴きなおして、彼女の偉大さを再認識したことはここに記しておきたい。

そのピアフの名曲をジャズ的なアプローチで録音したのがこのアルバムだ。録音データは以下のようになっている。

ACDGI(93年10月6日録音)
マルセル・アゾーラ:アコ一ディオン
ステファン・グラッペリ:ヴァイオリン
マーク・フォセット:ギター
ジャン・フィリップ・ヴィレ:べ一ス

@BEFHJ(93年11月10日録音)
マルセル・アゾーラ:アコーディオン
ステファン・ベルモント:トランペット&フリューゲルホーン
モーリス・ヴァンダー:ピアノ
ピエール・ミシュロ:べ一ス
サンゴマ・エヴェレット:ドラムス

*10月のセッションが伝統的なミュゼットのバント編成に近いのに対し、11月のものは完全なジャズ指向を示している。が、いずれのセッションでも、ピアフのオリジナルを損なうことなく、完全なジャズ・ミュゼットに仕上げている。

 収録曲は、ピアフを知らなくても、あるいは、シャンソン・ファンでなくても、どこかで聴いたことのあるものばかりだろう。巻頭を飾るのはピアフが39年に発表した初期のヒット曲で(アコーディオン弾き〉。アゾーラがこれをアルバム・タイトルにしたのも当然だろう。そして、オリジナルではビッグ・バンド的な響きを持っていた(薔薇色の人生〉にはテンポを速めた小気味良いスイング感を持たせている。また、無名だったピアフが楽譜を盗んでまで歌おうとしたというエピソードが残されているのが(異国の人〉。結局、それが36年のピアフのレコード・デビューとなるのだが、フリューゲルホーンからピアノヘと、流れるようにソロが統くアゾーラのヴァージョンは実に美しい。後にブラウンズが歌って全米NO.1を記録することになるのが、続く〈谷間に三つの麺が鳴る〉。これはピアフがシャンソンの友(コーラス・グルーブ)と一緒に録音したもので、ステファン・グラッペリの繊細なヴァイオリンがこの曲にエレガントな表情を与えている。もの悲しいアゾーラのアコーディオンで始まる〈かわいそうなジャン〉もピアフの陽気なチャールストン・ナンバーをうまく料理。そして、まるでマイルス・ディヴィスの「死刑台のエレベーター」を思い起こさせるようなトランペットで始まるのが〈私の兵隊さん〉。ブルージィでメランコリックなこれは、ピガールで退廃の極致を経験していたピアフを救い出すことになった作詞家、レーモン・アッソの作品で、彼との出会いがエディット・ピアフという芸名を名のるきっかけとなったということだ。

 おそらく、アゾーラの〈ジェザベル〉を聴いて、これがピアフの持ち歌だと即座に理解できる人は少ないだろう。しかも、アフリカからアラブっぽいタッチも感じさせている、この完全なジャズ・チェーンの原曲がアメリカの曲だとは… 案に興味深い。フランス版トム・ウェイツとも呼ばれるアルチュール・アッシュがカヴァーしたことでも知られるのが、続く〈パダン…、パダン…〉。ノスタルジックな響きを持つアゾーラのヴァージョンが途中で突然ブルースに変わるのだが、違和感は全くない。一方、59年に、まるでニューオリンズ風のアレンジで発表されたのが〈ミロール〉。ここでも、その南部臭さを随所に出したヴァージョンに仕上がっている。ピアフ後期の傑作となったこれも、知らない人はいないだろうとも思えるほどの名曲だ。また、フランス映画でも見ているような情緒を感じさせるアレンジで演奏されるのが、ピアフと仲の良かったシャルル・アズナブール作詞の〈ひとりの著者〉。そして、アルバムは(愛の讃歌〉で幕を閉じる。前向きな響きを感じさせるこの曲を最後に持ってきたのは、おそらく、ピアフが死んでも、彼女の歌は生き残り、多くの人々に影響を与え続けているということをアゾーラが語りかけたかったのだろう。そこには、彼のピアフに対するなみなみならない愛情を感じるのだ。

「私がピアフに初めて会ったのは46年。私も出演していたショーで、彼女がシャンソンの友と2曲歌った時でした。また、48〜49年、「ル・コルセール」というクラブで仕事をしていた時、彼女がマルセル・セルダン(当時のミドル級世界チャンピオンのボクサーで、ピアフが生涯で最も愛した男性と言われる)と、よくやって来たものですよ。そして、54年のこと、彼女のアコーディオニスト、マルク・ボネルの都合が悪いというので、彼女のピアニストのロベール・ショーヴィニに誘われて録音したのが「パリの空の下」でした。でも、結局、私は彼女の回りでうろうろしている数多いミュージシャンのひとりでしかなかったんですけどね。」

 そう語るアゾーラが、結局、ピアフの没後30年目にして、やっと彼女と共演できたようなアルバムがこの作品ではないんだろうか。幾度も幾度もこのアルバムを聴きながら、そんな錯覚に陥っている。さて、あなたは、このアルバムをどんなふうに聴いただろうか。また、90年にはステファン・グラッペリのバックで楽日していたアゾーラが、ちょっとしたミュゼット人気の余勢をかって自己のグルーブで来日する噂もある。その時には、なにがなんでも彼の演奏に接してみたいものだ。

1994年2月4日執筆

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