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『現在形のジャズ…』 実にいいタイトルだ。本来ならば、『現在進行形のジャズ』にしたかったのだろうが、こちらの方が語呂がいい。いずれにせよ、ここにどんな音楽が詰め込まれているか、それだけで一目瞭然だ。当然ながら、ここで演奏されているのは博物館にほうり込まれた化石ではない。貧欲にコンテンポラリィな音楽を飲み込む生きたジャズ。といって、とりわけジャズという言葉にこだわることもない。なにせ、元来、ジャズは自ら定義を拒絶する自由な音楽。枠に押し込められた『死んだジャズ』に用はない。過去の遺産を否定するつもりはさらさらないが… というよりは、異要素を吸収発酵させて進化したそれを充分に敬愛するからこそ、重要性を持つのが今を生きるヴィヴイッドなジャズ。それこそがこのアルバムに収録されている音楽だ。 思えば、マンチェスターのちっぽけなダンスフロアからジャズの蘇生が始まったのは今から10数年前のことだった。ジャズが生きた屍から解放されたのがこの時。インテリの陳腐な鑑賞音楽やBGMでしかなかったこれに血と肉と汗が加えられることになる。ここから生まれたのがジャズ・ノット・ジャズという定義不能な音楽だった。アシッド・ジャズやストリート・ジャズ… 雑多な名前が与えられているが、呼び名にさほど意味はない。それよりも、ロンドンのクラブ・シーンを中心に成長を続けたこの動きが、80年代後半から世界に広まり、ジャズ界の巨人をも飲み込んでいることの方が重要なのだ。 「いつだっけか、東京のジャズ・クラブで演奏した時のことさ。いわゆる、ストレート・アヘッドなジャズだったんだが、聞こえてくるのはグラスの触れ合う音とレジのチーンって音だけで… 生きてんのか死んでんのかわからない客ぱかりさ。思えば、あん時の女の客ってのは、ホントにひでえブスだったな。それに比べりゃ、昨日のライヴに集まってた女の子たちは、みんなベッピンだったね」 と、そんな言葉を吐いていたのはグールーと来日したドナルド・バード。前日のライヴでオーディエンスがジャズ本来のエネルギーをストレートに受け取ってくれたと、随分と喜んでいたものだ。
おそらく、そんな動きが沸点を迎えているのが今の日本だろう。きっかけはロンドンのカルト・マガジン『ストレイト・ノー・チェイサー(SNC)』が主催した92年暮のイヴェント『メイキン・イット・ファンキー』。スティーヴ・ウィリアムソン率いる超ファンキーなバンド、ザット・ファス・ワズ・アスが東京だけで5千人を越えるオーディエンスを集め、その編集長、ポール・ブラッドショウとジャイルズ・ピーターソンが選曲したブルーノート・レーベルのコンピレイションも好調なセールスを記録している。また、これを契機に日本で続々と発表されているのがファンキーでグルーヴィーなジャズを集めたコンピレイションの数々。さらには、日本からもDJクラッシュやモンド・グロッソといった才能溢れたアーティストがデビューし、国際的な認知を受けるに至っている。 加えて、目立ったのがロンドンに対するアメリカの解答だ。M−base派のグレッグ・オズビーが全編ラップのアルバム『3−Dライフスタイルズ』を発表し、ギャンダスターのグールーのプロジェクト『ジャズマタズ』も登場。両アーティストの来日公演が実現し、93年暮にはロンドンのディングウォールズのニューヨーク版『ジャイアント・ステップ』がその姿を見せている。グルーヴ・コレクティヴやダナ・ブライアントはジャズ・ノット・ジャズがグローバルな展開を見せていることの大きな証明なのだ。 そして、アメリカは西海岸からそんなシーンを背景に登場してきたのがこのアルバムの主、ソルソニックスだ。もちろん、新しいバンドだが、実は、その中心人物のひとり、ウィリー・マクニールはすでに数度の来日を経験しているスカ・バンド、ジャンプ・ウィズ・ショーイ(JWJ)のメンバーでもある(しかも、そのニュー・アルバム『ストリクトリー・フォー・U』もこの作品とほぼ同時に日本発売というから面白い)。 おそらく、トレンディなジャズ・ノット・ジャズとスカのコンビネーションに首をかしげる人がいるかもしれないが、元来、スカとはジャマイカン・ジャズ。実際、その顔とも言えるスキャタライツは60年代初期のジャマイカを代表する屈指のジャズ・ミュージシャンの集合体だ。彼らがスカ黎明期にホテルなどで演奏していたのはデューク・エリントンやカウント・ベイシーのナンバー。それがR&Bとジャマイカのビュールーやメントと融合されてスカとなり、ロック・ステディやレゲエへと発展するのだ。例えば、当時彼らが『マルコムX』として発表したのはリー・モーガンの『サイドワインダー』のスカ・ヴァージョンにほかならない。また、美空ひばりの『りんご追分』をカヴァーした彼らの『リンゴ』が日本では有名だが、これもアメリカのジャズ・ミュージシャンを経由して彼らに伝わっているという。さらに、コートニー・パインが最新作『アイズ・オブ・グリエイション』で彼らの代表曲『イースタン・スタンダード・タイム』をカヴァーしたのも、ジャマイカ系イギリス人としてのルーツ回帰で生まれた必然なのだ。あるいは、若手のジャズ・ミュージシャンとリコ・ロドリゲスやタンタンがジャズ・ジャマイカという新しいバンドを結成したのは、スカのジャズ的要素がここにきて再認識されているからにほかならない。 そんなジャマイカン・ジャズとしてのスカを全く新しいスタイルとして打ち出しているのがJWJ。すでに2枚発表されている彼らのアルバムを聴げば、ジャズやアフロ・キューバンの強力な影響がよくわかる。また、それとは別に、ウィリーがさらにジャズ指向のプロジェクトを始めたのも納得できるのだ。 さて、そのウィリーのプロフィールだが、実に華々しい活動歴を誇っている。出身地はカンサス・シティで、音楽を演奏し始めたのは17歳の頃。早熟だった彼がなによりも影響を受けたのがパンクだ。70年代後半、17歳の頃には中西部で最大の人気を持つバンドで活動し、当時はイギー・ポップらの前座も務めていた。そして、81年にLAに移り住み、翌年からJWJの前身、チュペーロ・チェイン・セックスで活動を開始している。これはレッド・ホット・チリ・ペッパーズやフィッシュボーンと並んで、当時のLAアンダーグラウンド・シーンで最も人気の高かったバンドだ。同時にセッション・ミュージシャンとしての活動も開始した彼がジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズのメンバーとなったのが84年。さらに、86年から87年には2トーン・ムーヴメントのアメリカからの解答だったジ・アンタッチャブルズのメンバーとして、3枚目のアルバム『ダブル“O”ソウル』に加わっている。また、86年にJWJを結成するのだが、それと並行して、88年から約1年間、ジョー・ストラマーのバンドに参加。この頃からプロデューサー活動を始め、メジャーから最初に発表されたのがスケイトマスター・テイトの1枚目だった。ジャズ・ノット・ジャズ的なテイストを持ったこれは、アイランドから発表されているコンピレイション・アルバム『ザ・リバース・オブ・クール』で紹介されている。 ウィリーと共にソルソニックスの中心人物となっているのは英国はブライトン出身のジェズ・コリン。4歳の頃からキーボードの演奏をはじめ、LAに来た86年からべースを演奏するようになっている。なんでも11歳の頃に最初に買ったのがロイ・エアーズのシングル。当初からジャズが好きで、そういった傾向の音楽を演奏していたということだが、本人いわく「ウィリーと比べたら、派手な活動歴はない」。が、アンダーグラウンドの数々のプロジェクトに参加していたという。 そのふたりが遭遇したのは約2年前。たまたまジェズが地元のレゲエ・バンドのプロデュースをしている時だった。今はなくなったが、JWJがハウス・バンドとして出演していた、LAのクラブ『キング・キング』(キンキンと聞こえる)で、ウィリーの演奏を見た彼がコンタクトを取り、プロデュースの手助けを依頼。その出会いがふたりのプロジェクトに発展していくのだ。面白いのは、ちょうどその頃、この両者が前後して訪ねていたのがロンドン。そこで彼らが目撃し、興奮させられたのがディングウォールズでのダンス・ジャズだった。ふたりが出会った頃、ジャズやラテンに目がないウィリーとジャズ・フリークのジェズがいろんなレコードをかけながら、大声でその興奮について話していた光景が目に浮がぶ。そして、92年、ソルソニックスが誕生することになるのだ。 彼らの録音を最初に聴いたのはその直後。ちょうどJWJの2枚目にゲスト・ミュージシャンの録音を加えようと、ウィリーとジョーイ(JWJのもうひとりの中心人物)がロンドンに来ていた時だ。正直なところ、ある種、趣味的なプロジェクトだと思っていたのだが、ウィリーがクリサリスとのアルバム7枚にもわたる契約をしたと聞いたのは93年夏。スカ・エクスプロージョンズに出演するために、JWJが来日した時だった。 「最初はロックン・ロールとかパンクだったんだけど、LAに来てから、ラテンやアフリカン、レゲエとかを聴くようになって… ブラジルやアフロ・キューバン、それにブルーノートのジャズとか。いろんなものを聴くタイプだね」 と言うウィリーがよりファンキーでグルーヴィーなサウンドを目指しているのがこのソルソニックス。特にレゲエのヴァイブにジャズが絡んでいるナンバーなどで、その個性がキラリと光っている。 さて、ソルソニックスはリズム・セクションのドラムス、ウィリーとべースのジェズを中心にした、ソウルソウル的な集合体に近いバンドだ。現在のところ、メンバーは9人の大所帯で、こんな構成となっている。
ウィリー・マクニール(ds) マイク・ボイトはJWJのピアニストで、顔色も変えず素晴らしいフレーズを叩き出す優れたミュージシャンであることはそのライヴを見た人なら知っているだろう。また、面白いのは日系アメリカ入のジム。実は、フィッシュボーンの初来日ツアーで、確かツアー・マネージャーかローディーとして同行していたのが彼だった。 また、レコーディングに関しては、様々なゲスト・ミュージシャンやラッパー、DJが加わっている。そのあたりをウィリーとジェズの曲紹介を下に説明してみよう。 まずはタイトル・ナンバー『ジャズ・イン・ザ・プレゼント・テンス』。ここでは、ゲスト・ギタリストとしてノーマン・ブラウンが参加し、ジョージ・ベンソン風のソロを聴かせている。ドラムのループにピュアなビバップ・スタイルが融合され、実にクール。また、多少レゲエを匂わせるグルーヴが底辺に流れているのが、また魅力だ。アメリカではアルバム発表に先立って、これが『モントゥーノ・ファンク』との両A面シングルとして発表されている。ちなみに、日本盤にボーナス・トラックとして収録されるのはここに収められているリミックスだ。 統くのは、なぜかレヴェル42を思いださせる『キープ・ザ・リズム・ストロング』。R&Bやソウル指向の曲で、アメリカではこれが新しいシングルとして発表される予定だ。ラテン・ファンクで迫る『モントゥーノ・ファンク』はクリサリスと契約する以前にブラス・レーベルから発表されていたインストゥルメンタル。これはイギリスのDJマガジンのチャートにも登場したこともある。 そして、LA暴動の直後にWARを意識してウィリーが書いたのが『ブラッド・ブラザー』。やはりラテンっぽいタッチの曲で、ここではあらゆる人種が一緒にならなければいけないと歌われている。ジェズによると、アルバム・タイトル『ジャズ・イン・ザ・プレゼント・テンス』には、ジャズとは時代を反映する音楽で、当然、そこには政治的で社会的メッセージが含まれるべきだという彼らの意志も込められている。そんな彼らの姿勢を端的に示す曲でもある。 統く『ダディ・ラヴ』はバンド結成から3週間後に、完全なライヴで録音されたもの。それがそのまま使われている。当時の雰囲気を完全に捕えているのが魅力だとは、彼らの言葉だ。また、ウィリーが最も気に人っているのが『アセンション』。フルートのデレクをフィーチュアしたこれは、実にヘヴィーなグルーヴを持つ緊張感いっぱいの曲だ。 ここで登場するのがフレディ・ハバードの曲『レッド・クレイ』なのだが、彼らはこれをレゲエに料理し、ヴォーカルまで付けている。JWJのウィリーっぽさが如実に出ている1曲。彼らの仲間がいたく気に入っているのがこの曲ということもあり、『キープ・ザ・リズム・ストロング』に続くシングルがこれになるだろう。 『ソー・マッチ・モア・トゥゲザー』もR&Bやソウルっぽい曲で、『ナウ・ジス・イズ・ハウ・ウィ・ドゥ・イット』は基本的にはジャム・セッションの結果。ここではサンディエゴのDJ、グレイボーイがスクラッチングで参加している。このアルバムには、こんなジャムの結果が数曲収録されているということで、『マウンテン・マン』もその1曲だ。 ウィリーによると、このアルバムで最も時間のかかったのがラッパー、MCブラザー・ソウルをフィーチュアしたナンバー『インサイド・イズ・ア・ストライド』。これは他の曲と遠ってループなどが多用されたプロダクションで、グループ・ヴォーカル録音が必要だったラテン・ソウル『モーニング・アフター・パラダイス』も同様に時間をかけたナンバー。いずれにせよ、ソルソニックスの味は充分出ていると思うのだが、どんなものだろう。 さて、すでにJWJのファンでこのアルバムを手にしている人もいるだろう。そんな人たちにとって気になるのが今後のJWJとウィリーの関係だ。が、彼は同時に二つのバンドで活動する決意を固めていて、JWJの解散はない。JWJの活動拠点だったキング・キングがなくなり、時間的余裕もあるということなのだろう。かといって、ソルソニックスが片手間の趣味でもない。すでに精力的なライヴ活動も展開しており、おそらく、日本公演も夢ではないだろう。なにせ、JWJのライヴでウィリーやマイクのミュージシャン・シップは経験済みだ。そのふたりが関わって作ったのが、生の楽器の音を中心に録音したこのアルバム。ライヴが悪いはずはない。できれば、早く来日してもらいたいものだ。 1993年12月16日執筆 |