JOHNNY CLEGG & SAVUKA-Heat, Dust & Dreams
いったい世界はどこへ向かっているんだろうか。新聞やテレビのニュースを目にするといつもそんな疑問が浮かんでくる。べルリンの壁の崩壊に象徴されるように、旧東則が次々と自由化を勝ち取り、旧態依然とした東西の冷戦構造が曲がりなりにも消え去ったかのように見えたのが80年代終わり。90年代が始まった頃には、誰もが少なからず薔薇色の未来を垣間見たような気もするのだ。ところが、ユーゴスラヴィア崩壊後に起きたのがボスニア・ヘルツェゴビナを中心とした民族紛争。同様の問題がアルメニア・アゼルバイジャンで発生し、無政府状態のソマリアや内戦が収まったとはとうてい考えられないカンボジア情勢が浮上する。天安門事件からバンコクの弾圧、LAを中心に全米で発生した暴動事件… なにやら、全てが我々の思いに逆行し始めているような気もするのだ。その最たるものがイラクのクウェート侵攻をきっかけに勃発した湾岸戦争に絡む中近東の状況だろう。残念ながら、今もまるで人間の尊厳を愚弄した殺戮が世界中で繰り返され、血まみれの人々の表情が否応なしにテレビから我々の茶の問になだれ込んでくるのだ。
もちろん、一元的な見方で一連の事件を見るのは正しくないかもしれない。その危険性も充分承知している。が、いずれにせよ、最も悲惨な目に遭わされているのは権力を握る政治家ではなく、最底辺に生きる一般市民。彼らが理不尽な暴力や恐怖にさらされているのを目の当たりにすると、いても立ってもいられなくなるのだ。自分に何が可能で、どれほどの力があるのか… そんなことを悠長に考える余裕もなく、闇雲に叫びたい衝動に駆られる。私自身がテレビやラジオで、あるいは、こういった原稿でそんな言葉を吐くのはそれが理由だ。それはジョニー・グレッグのようなミュージシャンとて同じことだろう。
ところが、そうすることで直面するのが奇妙な圧力だ。「政治的」だという烙印を押されることもあれば、「あいつは左翼だ」と敬遠されることもある(なんと、それを理由に私とは仕事をしたくない編集者がいるという噂も耳にしたことがある)。あるいは、わかったような顔をした政治屋がここぞとばかりに知識をふり回して批判ならぬ、糾弾を繰り返す。彼らにとって、「政治」とは特権階級のおもちゃ並の代物なのだろう。「政治」の恩恵、から疎外され、被害だけは必要以上に受けている一般人にはその特権をけっして譲ろうとはしない。そんな状況が誰にでもまとわりつく政治を特別な人間の「政治」に塗り替えてしまったのだ。
が、はたして政治を変えているのは金と権力という「政治」にうつつを抜かしている政治屋なのか? と問えば、必ずしもそうではない。実を言えば、それを語りかけているのが、私自身が約2年がかりで翻訳することになった「音楽は世界を変える〜反逆する音楽人の記録」(ソニー・マガジンズ社より92年10月に出版)という本だ。ライナーノーツの場を借りて宣伝することに多少の後ろめたさを感じるのだが、ロビン・デンスロウという音楽ジャーナリストが長年の取材を積み重ねて執筆したのがこの作品。ここに記されているのは第二次世界大戦以前から、音楽やそれを取り巻く我々の文化が確実に世界を変えてきたという事実だ。この本を読んでいくと、アメリカの公民権運動やヴェトナム反戦運動に始まって、反核運動や環境保護運動など、世界中のさまざまな国や地域で音楽が政治に対して有形無形の影響力を与えてきたのが一目瞭然に理解できるのだ。
その最たるものがこの本の最後を飾るネルソン・マンデラ解放を中心とした反アパルトヘイト運動だろう。27年に亘って獄中に繋がれていたANC(アフリカ民族会議)の中心人物、マンデラ氏がポールスモア刑務所から歩いて出てきたのは90年2月11日。スペシャルAKAの「フリー・ネルソン・マンデラ」やピーター・ゲイプリエルの「ピコ」あるいは、ステイーヴン・ヴァン・ザントを中心とした「サン・シティ」のプロジェクトやシンプル・マインズの「マンデラ・デイ」がなければ、はたしてこうなっていただろうか。おそらく、状況は全く違っていただろう。だからこそ、マンデラ氏がその解放から2か月後に姿を見せた英国でまず最初に語りかけたのが政治家ではなくミュージシャンやそのオーディエンスだったのだ。会場はロンドンのウェンブリィ・スタジアム。世界中からここにスター・ミュージシャンが集まり、彼の解放を祝福し、アパルトヘイト撤廃を求めた大規模なコンサートを開催していたのだ。
もちろん、そこに顔を見せていたのがこのアルバムの主、ジョニー・グレッグ&サヴーカだった。彼らが経験してきた苦悩や功績を考えれば、本来なら、この場でスター・ミュージシャンとして最も脚光を浴びるぺき人物がジョニー。事実、強烈な反アパルトヘイトのメッセージを込めた「アジンポナンガ」という曲を収録した「サード・ワールド・チャイルド」がフランスでは2百万枚に迫る売り上げを記録していたのだ。マイケル・ジャクソンの「BAD」でさえ勝負できなかったこれがどれほど多くの人々にあの問題を知らしめていったか…… が、皮肉なことにジョニー・グレッグが英国で檜舞台に立ったのはこれが初めてだった。いわば、醜悪な政治に翻弄され続けていたのがジョニー。思うに、彼の人生そのものがそんな苦痛の連続だったような気がするのだ。
英国はマンチェスターに生まれたジョニーは生後しばらくしてジンバブエ(当時は英国の植民地でローデシアと呼ばれていた)に移住。そして、7年後に南アフリカに移っている。12〜13歳の頃、フォークの影響でギターを始めるのだが、その時、ヨハネスバーグのストリートでズールー(南アフリカの部族のひとつ)のギター・スタイルを聞いたことがキッカケで波乱の人生が始まっている。
「まるで白黒映画から総天然色映画の世界に迷い込んだような…… そんな感覚だった」
とは、彼自身の言葉だが、この頃からジョニーが南アフリカでは禁断とされていた黒人文化に触れ始めている。それが否応なしに彼を政治と直面させることになるのだ。
「誰も政治を望んでいたわけじゃないさ。向こうからやってきたんだよ。黒人居住区に入ったというだけの理由で15歳の僕が逮捕されることになったんだから」
が、意図的に政治的なことを歌おうとしたことはなかったという。なによりも魅力は黒人の音楽や文化が持つ生命力。ズールーの音楽を演奏し、ズールーのダンスを踊る。それが彼を大学での人類学の勉強に駆り立て、昔からの友人、シポーとの演奏活動に導いていった。ジョニー&シポーの名の下に数年活動し始めたのがこの頃なのだが、本来ならミュージシャンよりも本格的に黒人文化を学び、最終的には大学に残りたかったようだ。ところが、ジョニー&シポーが79年にジュルーカと名前を変え、数々のヒットを記録。特に82年に彼らの作品がイギリスでトップ40に入ったことで、彼はミュージシャンを選択するようになったという。が、昔からの夢だった農場経営のためにシポーがバンドから抜け、ジュルーカは85年に解散しているのだ。
「政治を真正面から歌うようになったのは非常事態宣言が出されたその頃さ。多くの友人が行方不明になったり、殺されたり…… 南アフリカ政府がいかに野蛮で残虐だってのがわかったんだ。だから「アシンボナンガ」(マンデラに捧げた曲)や「ミッシング」って曲を書いたんだ。もちろん、放送禁止にされたけどね」
新しい曲を用意し、新しいパンドのリハーサルを重ねたジョニーは87年5月、現在のバンド、サヴーカでの活動を再開。そして、発表したのがそのデビュー・アルバム「サード・ワールド・チャイルド」だった。
「僕は政治活動家じゃないし、政治思想も持ち合わせてなけりゃ、政治団体に所属もしていない。政治が目的だったことはない」
と、そう語っているのだが、ここでも政治の方が彼に襲いかかってくるのだ。急速に盛り上がりを見せていた人種差別が大統領選挙の争点になっていたフランスで「アシンポナンガ」が大ヒットを記録。ジョニーはまるでメシアのような扱いを受けている。また、全く逆の事態が起こったのがイギリスだった。アパルトヘイトを死守していた南アフリカに対する文化ボイコットを徹底していたのがイギリスのミュージシャン・ユニオン。「南アフリカのミュージシャンのイギリスでの活動を許可できない」と、当初ジョニーのバンドは演奏を拒絶されていたのだ。そのあたりの事情は「音楽は世界を変える」に詳しく書かれてるのだが、テレビ出演は拒絶され、ギャラを反アパルトヘイト運動に寄付することを条件に演奏を許可されたのが数年後。さらに、トレイシー・チャップマンが大成功を勝ち取ることになったネルソン・マンデラ解放を叫ぶ大規模なコンサートヘの出演も拒絶されている。不毛な「政治」がジョニーに味方したことはなかったような気がするのだ。
が、ジョニーはそんな圧力に屈することなく着実に活動を続け、独自のスタイルを持つ音楽を完成させていった。ルーツにあるのはズールーのギター音楽やンバカンガと呼ばれるダンス・ミュージック。そこにロックやレゲエといったさまざまな音楽が融合され、強力なパワーを叩きだすサウンドが完成されているのだ。88年に「シャドウ・マン」を、そして、89年には「クルーエル・クレイジー・ビューティフル・ワールド」を発表。そのサウンドがどれほどの迫力を持っているか…… それを目の当たりに見せつけてくれたのが90年7月に実現した初来目公演だった。お世辞にも多くの観客が集まったとは言えないが、寒々としたホールが演奏が進むにつれて熱気を帯び、予想外のアンコールまで演奏する盛り上がりを見せたのがこの時。オーディエンスをグイグイと引き込んでゆくようなジョニー・グレッグ&サヴーカの熱烈なライヴは日本にも数多くのファンを生み出していった。
鮮烈な衝撃を残していったあの来日公演からもうすぐ3年。やっとのことで届いたのが今回のアルバム「ヒート、ダスト&ドリームス」だ。前回の「クルーエル・クレイジー・ビューティフル・ワールド」からのプランクは3年以上。その問にどれほど多くのことが彼の身の上に起こったか…… 実は、それこそがこのアルバムの完成を遅らせていたことは伝えておきたいのだ。
前述のように、束の問ながらも輝かしい未来を予感させてくれたのが80年代後半。もちろん、そんな状況に対してジョニーが有頂天になって浮かれるだけの人物ではないことは充分承知しているが、それでもあの変化が嬉しかったんだろう。弾けんばかりのエネルギィに溢れていたのが前作だった。では、あれから何が起こったか……
「ひょっとしたらマンデラが刑務所から出てこなかった方が良かったのかもしれない」
と、そんな発言をしたのが2度目の来日をした時のマハラティー二&ザ・マホテラ・クイーンズのメンバー。それはつぶ やきにも似た発言であり、それを公の場所で書いていいのかどうかわからないが、マンデラの解放から続発していったのが黒人グループ間の権力闘争だった。アパルトヘイトは廃止に向かっているとはいうものの、黒人には依然として選挙権は与えられてはおらず、政権奪取以降をもくろんだ抗争が彼らをズタズタにしているというのだ。もちろん、そのなかには権力側の挑発や策略によるものもあるという噂だが、いずれにせよ、こういった状況がジョニーを悩ましていたのは間違いないだろう。
特に、ジョニーにとって衝撃以上だったのがバンドのメンバー、パーカッション・プレイヤーでダンサーのドゥドゥ・ズール(アルバム「シャドウ・マン」のジャケットでジョニーと並んで踊っている人物)が殺された事件だった。実を言えば、今回のアルバムのほとんどが録音されていた昨年5月、ロサンゼルスでいつものようにプロデューサー、ヒルトン・ローゼンタールの下で作業をしていたジョニーの下に伝えられたのがこのニュース。残念ながら、録音は中断され、ドゥドゥの葬儀のためにジョニーは急遽南アフリカに帰国している。その時の公式レポートによると、ズールーランドで友人宅から帰宅途中のドゥドゥ・ズールが射殺されたということだ。当初は地元のタクシー会社間のいざこざに巻き込まれて、過って殺されたという説が有力だったのだが、右翼による政治関与に端を発しているという説もある。また、対立する黒人グループの調停に立っていたのがドゥドゥ。そのトバッチリで殺されたという噂も聞いている。いずれにせよ、「政治」という魑魅魍魎がその死に関わっていることだけは明らかなようだ。悲しいことに、彼が夢に見たアパルトヘイト全廃や黒人の選挙権獲得が現実になりつつある時代に彼はこの世を去っている。これが、ジョニーにとってどれほどのショックだったか…… それは我々の想像を遙かに越えているだろう。
が、そんな苦しみを乗り越えて発表されたのがこのアルバムだ。幾多の友人がアパルトヘイト廃止の運動のなかで殺され、傷つけられてきたジョニーがあの事件で消されることはなかったのを素直に喜びたいと思うのだ。どんな状況に置かれても、前向きの姿勢で歌い続ける。おそらく、そんな思いがこのアルバムには込められているのだろう。すさまじい勢いで彼の声を聴くことができる。
「かつて世界を変えようって話し合っていたのに、今じゃ自分の名前を変えるってのが望みなのかい?あきらめるなよ。愛する人を愛し続けなきゃ」と問いかける「ディーズ・デイズ」からドゥドゥヘ棒げた「ザ・クロッシング」。また、救世主のように扱われることに対するジョニーのコメントでもあるんだろう、「アイ・キャン・ネヴァー・ビー」から「何がどうあっても、この長い道を歩き続けなければいけない」と語りかける「ホエン・ザ・システム・ハズ・フォールン」…… そして、「タフ・イナフ」では「この重荷に耐えられるかい?燃え盛るストリートを歩けるかい?この変化を受け入れられるか?」と問いかける。それはなにもリスナーへのメッセージではなく、自分自身への言葉だという気がしてならない。そんな歌の内容に関してはジックリと日本語訳された歌詞カードでチェックして自分なりの解釈をしてもらえば嬉しいのだが、どの曲にも涙ぐましいぱかりのジョニーの決意を感じるのは私だけだろうか。特にアルバム最後を締めくくる曲での叫びには声をなくしてしまうのだ。
「僕はベルリンの壁が崩れるのを見た。
僕はマンデラが自由に歩き出すのを見た。
僕は夢の時代が来るのを見た。
自分の歴史を変えるんだ。
だから、夢を見続けよう」
というリフレインに絡むのはこんなフレーズだ。
「大丈夫。本当の勇気はやってくるもんなんだ。命をあげるのも、取り上げてしまうのも君なんだ。君は向こうで、僕はこっちで一緒にその勇気をつかんでいよう……」
聴けば聴くほど、言葉が理解できれば理解するほど、このアルバムの素晴らしさや音楽に対するジョニーの信念が迫ってくる。そして、こんな原稿を書きながら、やはり確信してしまうのが音楽の持つ限りないエネルギィだ。
「確かに音楽や文化は一歩も二歩も政治の先を行ってるよ。国境を越えて音楽は広がるんだよね。ベルリンの壁が崩れるずっと以前から音楽は壁の向こう側に届いていたんだ。政治が音楽や文化を恐れているのはそれが理由さ。そう、音楽は確実に世界を変えているんだよ」
いつだっけか、ジョニーとインタヴューした時、彼がこう断言したのが印象に残っている。誰が何を言おうと、それは紛れもない真実。だからこそ、ジョニーの声をできるだけ多くの人に届けたい。また、このアルバムを手にした人には、何度も何度もジックリと聴いてほしいと、思うのだ。いずれにせよ、感謝したいのはジョニー・グレッグ。これでまた、私自身に新たな勇気が生まれたような気がする。心の奥底から、ありがとうという言葉を彼に贈りたい。
1993年3月8目執筆 To the Top page
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