JOHNNY CLEGG & SAVUKA-SHADOW MAN
パリを発火点にロンドン、ニューヨーク、そして東京と急激な勢いで世界に広がり始めているワールド・ミュージックを語る時、絶対に欠かすことのできない存在がジョニー・クレッグだ。なんと言っても、この『シャドウ・マン』の前のアルバムに当たる、『サード・ワールド・チャイルド』がフランスで記録したのは軽く120万枚を越えるセールス。実はマイケル・ジャクソンの『BAD』も遙かに及ばないダブル・プラティナムとなっているのだ。といっても、ただ単に“売れた”ことが重要なのではなく、問題はその背景。そこにはパリで生まれた革命とも言うべきワールド・ミュージックの盛り上がりの謎を解く鍵が隠されているのだ。
パリでアクチュエルやリベラシオンと言ったメディアを中心に第3世界のポップスが正面から取り上げられ始めたのは70年代後半だった。その背景にあったのはフランス人のアメりカやイギリスなどのアングロ・サクソン系ポップスに対する反駁。彼らが求めていたのは新しいフランス人としてのアイデンティティだった。すでによく知られているように、人種の坩堝とも呼ばれるコスモポリタンな表情を持っているのがパリ。かつてアクチュエルの編集長であり、トーキング・ヘッズの『ネイキッド』へのコーディネイションでも辣腕を奮ったジャン・フランソワ・ビゾ氏に言わせると、パリに占めるアフリカ大陸からの人口は約120万人で、西インド諸島(アンティーユ)出身の人々は現地を遙かに越える80万人にも及ぷ。そんな「“今”のパリやフランスを反映した音楽シーンを作りだすこと」。まるで堰を切るような勢いでインタヴューに答えた彼が強調していたのがそれだった。
まずは81年にトゥーレ・クンダが60万枚のアルバム・セールスを記録し、83年頃からアクチュエルや彼らが作った独立放送局、ラジオ・ノヴァがアフリカ、カリブ系アーティストのライヴをシリーズで企画。同時に、それまで黒人など、有色人種が主要キャラクターとして登場したことがなかったテレビに圧力をかけ、積極的に”新しいフランス”をアピールし始めたのがこの頃だった。が、それを契機に生まれたのがル・ペンを中心とした右翼、フロント・ナショナル。彼らは経済停滞の原因を移民に求め、その排斥を訴えて急速に勢力を拡大していった。が、もちろん、そこで生まれたのが強力な反人種差別運動。その中心となったのが草の根を中心とした組織、SOSラシズムだった。
ちょっと話が長くなったかもしれないが、これがジョニー・グレッグの成功に結び付いているのだ。ちょうど、イギリスでバンクが生まれた頃、多くのロック・ミュージシャンが人種差別反対を唱え、ROCK AGAINST RACISMという運動を作り上げていったように、フランスでもこの運動の中核になったのがミュージシャンやメディアの人々。数々のキャンペーン・コンサートが企画され、数10万人単位のデモも限りなく開催されたと聞く。そして、このSOSラシズムはフランスの人種差別から南アフリカで今も続く政治暴力(リトル・ステイーヴンに言わせると、国家主導のテロリズム)、アパルトヘイト廃止運動へ広がり、そのアンセムのような形で歌われていったのが『サード・ワールド・チャイルド』に収められていた名曲、4半世紀も獄中に繋れている黒人解放運動家、ネルソン・マンデーラに捧げられた、“ASINBONANGA”だった。イギリスはマンチェスター生れの白人が、南部アフリカで成長し、ズールーの音楽をべースにしたロックを演奏する。しかも、強力にアパルトヘイトを攻撃しながら、彼が訴えているのは反人種差別。こんな彼の姿がフランス人たちにアピールしたのだろう。その結果があのアルバムの成功だった。
そのジョニーに会ったのは今からちょうど1年ほど前、彼がイギリスをツアーした時。当時はそんなフランスの状況を全く理解していなかったので、そのあたりの話を聞けなかったのが残念だが、彼と音楽の出会い、そしてアパルトヘイトのことなどを中心にジックリ1時間ほどインタヴューすることができた。その時の話を元に彼を紹介してみたいと思う。
「まだ生れたぱかりの6か月の頃、家族とジンバブエにわたって、そこで7年住んだんだ。でも、母が南アフリカ人と再婚して、それ以来南アさ。一時、父親の仕事の関係でザンビアにいたことはあるけど。母親はジンバブエ生れ。当時はローデシアだったけど… その頃から、キャバレーなんかで歌ってたんだよね、彼女。それに僕も子供の頃から、イギリスのフォークが好きで、12〜13歳の頃からギターを弾き始めたんだ。でも、ヨハネスバーグのストリートでズールーのギターを聴いて、惚れ込んだってのか、いろんなミュージシャンに会って、教えてもらったんだ、そのスタイルを。そうする間にギターだけじゃなくて、ズールーの文化そのものにのめり込んでいったってのかな」
それまで、白人の世界しか見たことのなかったジョニーにとって、それはまるで夢のような経験だったと語っている。
「まるで違ったんだ、それまで聴いていた音楽と。それに初めて黒人たちの街に人った時のことさ。週末に開かれたお祭りでね。世界が解放されたようにも思えたよ。だって、ストリート中がダンスと音楽で溢れていて、焚き火の匂いやマーケット… 僕には魔法の場所でね。それが南アの白人の子供にとってどれほど特別なものだったか… 白人のバスに乗って白人の学校にいって、教会も映画も白人の世界ばかりだったのに、それとは全く違った世界が突然目の前に開かれたんってのかな。それが僕だけの宝物になったような気がするんだ」
そんな黒人たちの世界で、彼の人生に最も大きな影響を与えたシポーとの出会いがある。
「いろんなミュージシャンに会ったけど、最も重要だったのはシポーだね。まだ、僕が15で、彼が16の時に初めて会って、70年から85年までずっと一緒に演奏してたんだ。すごい影響を感じるよ、彼には。彼に出会う以前から、ズールーのギターはほとんど弾けたんだけど、彼は群を抜いて素晴らしくてね。普通は伝統的なスタイルを継承してただけなのに、彼は自分で作曲して独自なスタイルも持ってたしね。ユーモアもあって、孤独で… 親や友人から離れて白人エリアに住んでた彼にすごく共通点を感じたんだ。だから、音楽以外でもずっと一緒だった」
そのシポーとの活動が彼をミュージシャンへと育てていったのだ。
「70年に僕は大学に人って、彼は庭師の仕事をしてて… その頃からふたりで演奏し始めたんだ。6年間、ストリートを中心に。その頃、アパルトヘイトのせいで一般のホールじゃ演奏できなくてね。だから、オルタナティヴな場所、街角や素人地区、違法なバーやミュージシャンたちが住んでいたロフトとか… そんな場所でやってたんだ。何度も警察に捕まった。不法に黒人地区に入ったとか… そんな理由で」
人類学を専攻していたジョニーは76年、大学を卒業。この頃からジョニー&シポーというデュエット・グループでシングルの発表を始め、その4枚目がヒットを記録している。本人によると、当時のスタイルはかなり伝統的で、変化が生れたのは79年。バンドの名前をジュルーカ(ズールー語で汗の意味)に変えてアルバムを発表した頃だという。アフリカと西洋を融合したサウンド、それを求めていったという。ただ、面白いのはその当時、彼はミュージシャンになろうとは思っていなかったという点だ。
「シンガーだった母親がCBSレコードで働くようになって、子供の頃から音楽業界の嫌らしさを充分知ってたからね。絶対にミュージシャンなんてなりたくなかったんだ。ただ音楽が好きでたまらないから… 僕が演奏してたのはそれだけの理由だったんだ。それよりは学者になりたくて… 実際、大学出て講師をしてたこともあるよ。ズールーの土地を訪ねて彼らのダンスを学んで… もちろん、その間もレコードは発表してたけど。ところが、82年に発表したアルバムがイギリスでトップ40に人るヒットをして、音楽活動を続けるか、それとも学者になるか、その選択を迫られたのがその時なんだ」
メンバーとのミーティングで音楽を選んだ彼はヨーロッパからアメリカ、カナダを2回ツアー。かなりの成功を収めているのだ。が、その成功を境にシポーは昔からの夢だった農夫になるためにズールーの上地に戻り、85年バンドは解散。ジョニーはソロ活動に入ることになる。しばらくして、彼はソロ・アルバムを発表。86年にバンド結成のためリハーサルを重ね、87年5月に現在のバンド、サヴーカでの活動を再開し始めだというのだ。そして、EMIインターナショナルから発表したのがサヴーカとしてのデビュー・アルバム、『サード・ワールド・チャイルド』。それがフランスで大ヒットを記録し、瞬く間に成功を収めだというわけだ。
それに統くのが昨年春に発表されたこの最新作『シャドウ・マン』。思えば、昨年のイキリス・ツアーで使われていたのがジョニーとパーカッショニストで有名なダンサーでもあるドゥドゥの強力なズールー・ダンスを素材にした写真だった。もちろん、それはこのアルバムのジャケットに使われているものと同じだ。その力強いタッチはアルバムの内容そのままで、前作以上にソフィスティケイトされたサウンドは南アフリカで生れた極上のダンス音楽、ムバカンガの持つ可能性を充分に感じさせてくれている。
さて、南アの音楽を謙る時に欠かせないムバカンガの説明をちょっとくわえておきたいと思う。その意味は貧しい黒人たちのスープのことで、このあたりの解説は今度日本でも発売されることになったマハラティーニ&ザ・マホテラ・クイーンズのオリジナルのライナーやイギリスのスワンから出版されている、“STERN'S GUIDE TO CONTENPORARY AFRICAN MUSIC”に詳しい。それを要約すると、ズールーのルーツのもとに西洋から輸入された音楽が融合されていったもので、60年代に生れた新しい音楽だといわれている。ダンスせずにはいられないほどホップするギターに腰の浮き沈みを誘うベース・ライン。ジョニーはそれをぐっと現代的な解釈で演奏しているようだ。しかも、歴史のせいもあって、ジャズからR&Bの歴史の長いのが南アの音楽シーン。縦横無尽にそんな音楽を彼らのルーツに消化してきたせいだろう、いろんなヴァリエーションを感じるのがこのムパカンガだ。マハラティーニたちのはとてもアーシィで、マロポエッツやシポー・マブーセたちのサウンドもジョニーほどではないにしろ、かなり洗練された仕上がりになっている。その他にもいろいろなバンドがあるのだが、とりあえずはそのあたりのアルバムは是非聴いてほしいと思うのだ。が、もちろん、そんなスタイルヘのこだわリが重要だとは思っていない。それよりは、どんなスタイルの音楽でも”生きている”世界からストレートに伝わる人間たちの迫力や表現、彼らの喜怒哀楽が僕にとっていい音楽だ。ジョニーが素晴らしいのも、前述のアーティストたちが心を打つのも、スタイルやサウンドではなくそんな彼らの思いがアルバムに封じ込められているからだろう。できれば、エキゾでもエスノでもない、彼らの昔楽に身体を動かしながら、なにかを共有してもらえればと思うのだ。
1989年5月1日執筆 To the Top page
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