Jazz Defektors

 きっかけは85年の終わり、ロンドンのクラブ・シーンの取材をしていた頃に生まれている。なによりも、当時驚かされたのはジャズで踊るためのクラブが存在したことだった。しかも、そのジャズが、フュージョンではなく、本物のジャズ。リー・モーガンやアート・ブレイキー、ハンク・モブレー、ホレス・パーラン... そのあたりは、このジャズ・ディフェクターズ(通称JDズ)と出会った数年後に作ったコンピレーション・アルバムのところで語るとして、当時は、そんなクラブで若い世代に再発見されていたのがジャズだということに大きな驚きを感じたものだ。

 ちょうど、時を同じくして制作が始められたのが、当時、ストーンズやABCのプロモーション・ビデオの制作で脚光を浴びていたジュリアン・テンプル監督のミュージカル映画「Absolute Beginners」だった。おそらく、今はハリウッドに住んでいるはずなのだが、あの頃、彼が事務所を置いていたのがソーホーのど真ん中。オールド・コンプトン・ストリートとディーン・ストリートが交差する角にあるビルの3階か4階だったとだったと思う。窓には安っぽいネオン・サインが付けられていて、「いやぁ、この窓からソーホーをみていると、雑然とした街のエネルギーを感じるんだ。そう、まるで映画のような」なんてことを彼が話していたのをよく覚えている。

 そこで彼とのインタヴューをした後、「面白いバンドがあるから、見に行けば?」と勧められたのがこのジャズ・デフェクターズだった。中心となっているのはソルツ、PC、マーク、バリーという4人のヒップな黒人たち。あの映画のなかではシャーディーが歌うシーンのバックにその姿を発見できるのだが、彼らのダンスの素晴らしいこと。まるでバレーとブレイク・ダンスを融合した独特のスタイルは、後にノーザン・スタイルと呼ばれるようになるのだが、それに一目惚れしたようなものだった。しかも、この4人が二人ずつのコンビネーションでかなりアクロバティックな振りもみせる.... といっても、彼らの名を知った時点では、そんなこと、思いも寄らなかったのだが。

 あのインタヴューからしばらくして、彼らのライヴをみたのはトラファルガー広場からバッキンガム宮殿に続くモールという通りの右にあるICA。ちょっと先をいっている映画やミュージシャンがよく紹介されている場所だった。ジュリアンから彼らの魅力は聞いていたのだが、このライヴで完全に一目惚れしたというのが正しい。ジャズ的なエッジを持っていても、ジャズではなく、かといってファンクでもレゲエでもなければ、ロックでもない。その全てがごった煮の用に、ある種不自然に混ざり合いながら、「マンチェスターの80年代にしか」生まれないような音楽を演奏していたのが彼らだ。

 そして、なによりも大きな魅力となったのは、噂通り、そのダンス。まるで50年代や60年代初期のジャズ・ミュージシャンがタイム・マシーンから抜け出たようなあか抜けたスーツ姿で、スリリングでダイナミックなダンスを披露しているのだ。あれから10年以上がすぎた今、あのオリジナリティあふれたダンスが消えてしまったような気がしなくもないが、おそらく、彼ら以外にはあんなダンスはできないだろう。

 おかげで、ライヴが終わったその直後、楽屋に向かって歩き出したのが私だった。彼らと話をしたこともなければ、知り合いがそばにいるわけでもない。が、そうせざるを得なかったほど、彼らが素晴らしかったのだ。

 「You guys are wicked, man!(お前ら、めちゃくちゃええやんけ...ってな感じかな)」とかなんとかいったのだろう。その感激を語り始めていた。今でも年に1度か2度、メンバーの中心だったソルツと電話で話すことがあるのだが、彼らもそのときの印象は忘れていないようで、「なんじゃ、このへんなガイジンは!」と思ったことを話してくれることがある。ともかく、彼らのためになんとかしたかったし、彼らを日本の人たちにみせたかったというのが本当のところだ。それ以来、コンスタントに彼らとコンタクトを取りながら、なんとか彼らを日本に紹介しようとしていた。

 ところが、彼らにはお金なんて全然なくて、レコードも作ってはいない。ライヴにはどんどんオーディエンスを動員して、いろんなところで噂になっているというのに、彼らの全貌を日本に伝える素材がなかったのだ。確か、どこかのインディのコンピレーションに1曲ぐらい録音していたような記憶があるが、それだけではレコード会社を説得できないし... と悩んでいた時に、「いやぁ、実は、ポール・ウェラーが僕らのことを気に入ってくれていて、ただでスタジオを貸してくれるっていうんだよ」と彼らから連絡が入ってきたのだ。しかも、そのポール自身がプロデュースするという。当時、スタイル・カウンシルを結成して、ジャズやソウルに傾倒し始めたのがポール。そんな流れもあったのだろう、それが後に日本でスマッシュ・ヒット(あくまでアンダー・グラウンドでだが)を記録することになった「Ooh,This Feeling」だった。

 その素材と、地元のスタジオと安い値段で録音できるディールをして生まれたのが、ここに紹介するアルバムだ。日本側から金を若干引き出し、それを当てにして全てが進行。マンチェスターの、今ではもうなくなってしまったストロベリー・スタジオで残りのトラックが録音されている。そういえば、このスタジオの地下にあった倉庫には、マンチェスターの看板のようなアーティスト、ジョイ・ディヴィジョンからニュー・オーダー、あるいは、10ccあたりの未発表テイクがごろごろと眠っていたものだ。スタジオで彼らのレコーディングにつきあいながら、そんなことを考えていたのを覚えている。

 そして、このアルバムが発表される前、映画「Absolute Beginners」のプロモーションも兼ねたイヴェントのために彼らが来日している。DJは、ロンドンのクラブ・ジャズ・シーンを語るときに絶対に登場するポール・マーフィとギャズ・メイオール。今思えば、これが日本で初めての本格的なクラブ・セッションだった。まだ、「クラブ」を語るときに、「いや、綺麗なおねえさんがそばで酌をしてくれるクラブじゃなくて...」と、そんな説明をしなければいけなかった時期でもある。その運営の中心は当時からクラブ・キングを主催している桑原茂一君。この時、彼の下で一緒に働いていたのが今UFOとして世界的な活躍をするようになったDJの矢部君、そして、アーティストとして数枚のアルバムを発表している井出靖君だ。そして、それイヴェントを支えて招聘下となったのが、親友となって10数年以上にわたっていろんなイヴェントを一緒に企画していくことになるスマッシュの大将だった。
 日本で初めての本格的なクラブ、しかも、「ジャズで踊る」なんて奇妙なコンセプトがあるにもかかわらず、3週間近くにわたって開催されたこのイヴェントは大成功を収めている。初めは人もまばらで、誰もが不安を感じていたのに、幕を閉じる頃になると深夜の2時にも行列ができていたほど。その噂の中心となったのがジャズ・ディフェクターズだった。

 「すごいダンスだよ」
 「めちゃくちゃかっこいい」

 そんな声が自然に広まっていったのだろう。これが、おそらくは、日本のクラブ・シーンの起爆剤となっていったような気がする。

 結局、このアルバムは約25000枚を売り、地元英国でもアルバムの発表されていないアーティストがとんでもない快挙を成し遂げたと騒がれたのが当時。このアルバムの発表に会わせて実現した彼らの、ダンサーとしてではなく、バンドでの来日公演は芝浦のインクスティックで開かれているが、それも大成功に終わっている。ちなみに、この時のサポート・バンドが結成間もないスカ・フレイムス。とんでもない盛り上がりをみせたものだ。

 2枚目のアルバムを発表すれば、間違いなく50000枚のセールスを記録できると噂されていたのだが、残念ながら、バンドはその方向性の違いから二つに分裂。双方が「俺たちこそJazz Defektorsだ」と主張していたのだが、「全員がそろっていなければJazz Defektorsじゃない」と、いずれとも仕事をしなかったのが私自身。結局、彼らはそのまま姿を消してしまうことになる。残念だが、それも仕方がない。

 聞くところによると、ドラムスとパーカッションは後に、スイングアウト・シスターに合流。バリーはロンドンにでて、ふつうのサラリーマンになり、PCはデザイナーとして仕事をしているとのこと。ギターのフランクは母国のブラジルに帰り、サックスのヴィニーは、ある時期、マンチェスターでアイスクリーム売りをしていたということだが、それからどうなったのかはわからない。そのほかのメンバーの消息もつかめてはいない。

 まだ、シンプリー・レッドが無名に近かった頃、そのメンバーもJazz Defektorsをサポートしていたものだ。今思えば、当時の日本ではJDズの方がシンプリー・レッドより遙かに人気があったようにも記憶している。が、方やちりぢりになり、方や大スター。これが時の流れというものだろう。

 いずれにせよ、このアルバムの輝きは今も全く色あせてはいない。ただ、残念なのは、このアルバムの権利を持っているのが誰か曖昧になってしまったことだろう。一説によると、すでに倒産したファクトリー・レーベルに権利が売り渡されたとか。日本ではライセンスというかたちの契約だったので、どこもこれを再発売できる権利はない。おそらく、これも知る人ぞ知るコレクターズ・アイテムとなってしまうんだろう。

1998年1月22日記す

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