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ことの起こりは北部イングランド、マンチェスターにあるちっぽけなクラブだったという。その数年後にブームとなるジャズがまだ噂にもなっていなかった77〜78年頃、当時主流になっていたジャズ・ファンクに飽き足らない子供たちが踊り始めたのが50年代後半〜60年代前半のジャズ。メディアが流行や売筋のポップスばかりを追いかけている一方で、あの時代のジャズに新しい魅力を発見していったのが彼らだった。そして、マンチェスターからバーミンガムやロンドンへこの動きを伝えていったのはヒップなサウンドを求めるクラブのDJたちだ。マンチェスターで初めてジャズのディスクをターンテーブルに乗せたのは今でも圧倒的な人気を持つコリン・カーティス。それに続いたのがその後次々とダンサブルなコンビレーション・アルバムを制作していったポール・マーフィにバズ・フェ・ジャズやジェイルス・ピーターソン…… 彼らは名もないクラブでやたらホットなあの時代のジャズのディスクをスピンさせながら、ジャズを新しい時代のポップ・ミュージックとして再生していったのた。 そして生まれたのがジャズ・ブームだ。まずは最もヒップな音楽ファッション誌と言われている“フェイス”がこれを報道し、ぽぽ同時期にヒット曲を飛ばし始めたのがジャズっぽいポップスを演奏するグループの数々。シャーデーやワーキング・ウィークらがチャートを飾り、ここに続いたのがジュリアン・テンプル監督によるミュージカル“アブソルート・ビギナーズ”だ。そして、このジャズ・ブームへのメディアの洪水のような報道が始まる。この時、その動きを毎日のように書いては日本の雑誌に発表していたのが今この原稿を書いている僕自身。あの時は日本でもかなりの反響があったと思うのだ。が、この動きの重要性がどこまで理解されたかというと、正直なところ多少の疑問が残る。その端的な例がジャズ=オシャレという発想だ。これがレトロなんて退屈な言葉と合まって、ジャズが鼻ばかりが高いファッション人間たちのBGMにされてしまったように思うのだ。 が、ロンドンて起きていたジャズ・ブームの主人公たちはDCブランドに必死になっている金持の子供たちではなかった。着ているものって言えば、たいていは古着屋で手に入れた中古品。しかも、ただスクイリッシュな服を着て、指を鳴らすだけではなくあの時代が抱えていた黒いエネルギィを全身で感じながら肉体で呼応していったと言えばいい。それに、一部の評論家たちが言ったような懐古趣味もなかった。それよりはイギリス人には全くの空白となっていたあの時代のアメリカン・ポップスに新しい魅力を発見したと言った方がいいのだ。もちろん、そう書くとジャズ・ジャーナリズムの世界の方々から非難を浴びそうだが、当時ジャズはなによりも新しいフォームのポップ・ミュージックだったように思うのだ。そして、それと全く同じ発想でジャズを聴き始めたのがイギリスの子供たち。それゆえ、エリート意識の権化となったジャズの世界からはバカにされていたジャズ、例えばジミィ・スミスあたりのオルガンをフィーチュアしたソウルフルなジャズやパーカッションを多用したラテンっぽいサウンドがクラブ・サーキットで爆発的なヒットとなっていったのだ。 それだけではない。そんな新しい解釈はジャズなんて聴いたこともなかった若い人たちにその門戸を解放し、彼らを次々と引きずり込んでいったのがジャズの世界。そして、そんな解釈と感覚でジャズを意識した新世代のミュージシャンたちに活動の場を与える機会を与えていった。あのブームが消滅することなく、あれ以後も新しい展開を見せながら成長を続けているのはそれが理由だ。ジャイヴ勢ではシュヴァリエ・ブラザーズからディープシィ・ジャイヴァーズやレント・パーティが、アーシィなジャズで言うならスタイル・カウンシルでドラムを叩いているスティーヴ・ホワイトのジャズ・レネゲーズがちっぽけなヴェニューから大規模なフェスティヴァルにまで登場して大活躍。さらにはエリート意識に凝り固まったジャズ界への反逆児とも呼べるヴェテラン・ドラマー、トミィ・チェイスも素晴らしい活動を展開し、ジャズをポップに解釈した新しいパンド、その好例と言えるジャズ・ディフェクターズやカーメルなどがストリートレベルて圧倒的な人気を獲得しているのだ。そしてこの動きが急激な勢いでイギリスのミュージック・シーンに広がっていることも忘れてはならない。 そんな中で革命とも呼べるほどの役割を果たしたのがこの作品、ジャズ・ウォーリアーズのリーダー的存在、コートニィ・パインだった。ジャズ・ブームがディスコやポップスの域を出ていなかった時、突然出現したのがアメリカのウィントン・マルサリスら若手ジャズ・ミュージシャンらへのイギリスからの解答とも呼べる10代後半のコートニィ。ジャズ・ブームにクールな反応しか出せなかったこの国のジャズ・ジャーナリズムは彼を英国ジャズ界最初の天才と呼び、さらに新たにブラック・ミュージックとしてのジャズの魅力を発見したロック系ジャーナリストたちはワーキング・ウィークらポップス・ジャズを越える初の若手本格派黒人ジャズ・プレイヤーの出現に狂喜していたのだ。もちろん、その根拠は彼の音楽性と同時にマルサリス兄弟にも負けることのないスクイリッシュな雰囲気。メディアは連日のようにこの天才の記事を発表していった。が、それに溺れることなく最もクールな反応を見せていたのが当の本人。 「あれがハイプだったってのはよ〜くわかってるよ。歴史に登場するジャズの巨人に比べりゃあ、僕なんてまだまだ未熟な子供のようなもんさ。ただ、結果としてこの国のジャズ界に与えた影響ってのは素晴らしかったと思うんだ。もちろん、僕のアルバムが売れたこともそのひとつだけど、それよりも僕のような人間が、しかもジャズを演奏してツアーに出られること、それが若い人々にジャズを演る勇気を与えたと思うんだ。」 CBS/UKからまずはイギリスの新しいジャズ・アーティストたちを集めたコンピレーション、“ゲット・ワイズ”に発表した1曲でデビュー。さらに、実質的なデビュー・アルバム、“コートニー・パイン(JOURNEY TO THE URGE WITH IN)”がここに続く。22歳で発表したこの作品のセールスは記録破りの5万枚。一般的なジャズ・アルバムのセールスがたかだか2千枚程度と言われるここで生まれたこの記録はもちろん驚異的な事件だった。しかも、これがティーニィ・ポップが乱立するポップ・チャートに食い込み、シングルまでリリースされているのだ。が、その直後のインタヴューで彼が口にしたのがあの台詞。そして、アート・ブレイキィからあったメッセンジャーズ参加依頼を拒否したという宣伝に関しても、彼はクールにこう続けるのだ。 「そんなパカな… 拒否だなんてとんでもない。たまたまあの時、アイランドとの契約が成立して録音もあったし… そんな事情が重なっただけさ。それになによりもまずは自分の国で地盤を作らなきゃダメだって思うんだ。」 また、そんなハイプヘの嫉妬にも似た批判にも対峙しなくてはならない。例えば、シングルとして発売された“チルドレン・オヴ・ゲットー”がジャズではなくただのポップスだと言われていることだ。が、それに対しても彼は動じることなくこう言い切る。 「コマーシャリズム?そう、思いたけりゃそれでいいさ。実際、ジャズがマイノリティのものでしかないここで、レコードを売るのはたいへんな作業なんだから。ただ、覚えておいてほしいのはジャズは限りなくレンジの広い音楽ってこと。そこにはソウルやレゲエにラテン… 様々な音楽の要素力含まれているし、それが僕にとってのジャズの魅力なんだよ。」 と、そんな彼の指向を端的に示すのがそのソロ・ワークと平行する形で押し進められてきたジャズ・ウォーリアーズだった。母体となったのはジ・アビビ・ジャズ・アーツ。ロンドンをべースに活躍するミュージシャンたちが黒人音楽と文化のプロモーションをするために設立したのがこの団体だ。そこに参加していたのはレゲエやソウルを中心にポップ・ミュージック畑て活躍するスタジオ・ミュージシャン。彼らがまだデビューして間もない86年3月、カムデンタウンにあるエレクトリック・ボールルームで彼らの演奏を見た時も、レゲエ・バンド、アズワッドのホーン・セクション、マイケル・ローズがここに参加し、当初はワーキング・ウィークのヴォーカリスト、ジュリィ・ロバーツやレゲエ・ヴォーカリストのキャロル・トンプソンらの顔も見えていた。しかも、それがかなり流動的に変化しているのがこのオーケストラの特徴だ。そのあたりの事情はコートニィの言葉に詳しく語られている。 「以前、ハイテンションなんてジャズ・ファンクのパンドやレゲエ・バンドのバックで演奏してた頃に感じていたのがすごい不満だったんだ。ミュージシャンなのに演奏できる音っていったらほんのわずか。ソロなんてやろうもんなら文句を言われるわけさ。俺たちジャズ演ってんじゃないんだからって。そんな不満の積み重ねが本格的にジャズを演奏し始めるキッカケでもあったんだ。そして、ジャズ・ウォーリアーズを始めるとどんどん増えていったのがそんな仲間たちさ。」 こうして生まれたのが20人前後のメンバーによって構成されるイギリス初の黒人によるジャズ・オーケストラだった。そのせいか、彼らのサウンドに感じるのはレゲエからソウル、そしてアフリカン・エスニック等の雑多な音楽の要素。さらにはホップに共通する要素がここに加わる。が、もちろん、それが悪いわけはない。ちょうど50年代後半、アメリカのジャズ・ミュージシャンたちがラテンやR&Bの影響を受けながら新しいフォームのジャズを模索していたように、彼らもまたここでイギリス独自の新しいフォームを創造しているのだ。その成果を端的に示しているのがこのアルバムじゃないだろうか。ちょうどこれが録音された87年3月、この会場となったロンドンのショウ・シアターで彼らの演奏を見ながら、わずか1年ばかりの間に急速に成長していた彼らの姿にすいぶんと驚かされたものだ。しかも、それをベストな状態で録音して生まれたのがこのアルバム。その斬新なサウンドや各ミュージシャンたちのソロが見せる味は“えっ、イギリスのジャズ?”と彼らを全く相手にしなかった世界のジャズ・ジャーナリズムに対して極めて有効な一撃となっているように思えるのだ。 また、忘れてはならないのはこれが刺激となってまだまだ多くのミュージシャンたちが次々と登場してきていることだ。このオーケストラに参加しているヴェテランのハリー・ベケットは言うに及ばず、そのメンバーであるフィリップ・ベント、あるいは最近著しい脚光を浴びているスティーヴ・ウィリアムスンやアンディ・シェパードたち。さらには、そんなジャズ・ミュージシャンたちがかつてのジャズの常識を破るようなスタイルで活動を繰り返していることも特筆に価する。タップ・ダンスとヒップホップを融合したダンスで迫るダンス・グループ、IDJとのセッションは多くのジャズ・ミュージシャンによって現在も続けられているし、かつてダンサーとして活躍していたジャズ・ディフェクターズがやはりショウ・シアターで共演したのがアート・ブレイキィとジャズ・メッセンジャーズ。おそらく、アメリカでは不可能だったそんなイヴェントを実現させたのがロンドンのジャズ・ブームだ。これが予想以上に大きな成果を生み出しながら、これからもジャズを変革し続けてゆくだろう。それはこのアルバムからだけでも充分に想像できると思うのだ。 1987年9月1日執筆 |