Nick Plytas -Who Likes Jazz?

 まだライターでもなんでもなくて、ヨーロッパをふらついていた80年頃、たまたま居候することになった英国はブライトンの友人の家でパーティがあったとき、どこかで見たことがあると思った人がいた。それが70年代後半に「Pop Muzik」の大ヒットを記録したミュージシャン、M(ロビン・スコット)だった。その彼が3枚目のアルバム「Official Secret Words」を録音していたときに偶然知り合ったのがニック・プリタスだった。

 ロビンが「これ、面白いよ」と言って聞かせてくれたのが、彼のプロデュースで作られたニック・プリタスのシングル「Who Likes Jazz?」。おそらく、4ビートのスイング感がたまらなかったのだろう、これをいろんな人に聞かせたくて、うずうずしていたというのが正しい。

 それから数年後、音楽ライターとして活動を始めることになるのだが、たまたま取材したのが、ロンドンのクラブ・シーンで生まれたジャズの再発見やその影響で生まれたバンド(ワーキング・ウィーク、エヴィリシング・バット・ザ・ガール、シャーデーなどなど)の数々。それならば、ニック・プリタスのこの曲が日本で紹介されるべきだと、当時、懇意にしていたレコード会社の担当者に相談したのがきっかけでこれが発売されることになった。

 それほどヒットしたわけではないが、多くの人がこの曲に新鮮な驚きを感じたはずだ。ジャズであって、ジャズではなく、それでもこよなくジャズ的なフェイク感覚が時代の波にあったのだろう。英国ではそれほど有名ではなかったニックが日本でカルト的なスターになったほどだ。

  • Liner-Notes
  •  まるで俗物には興味のカケラもないような、瓢々とした表情…それがちょうど5年前、初めてニックに出会った時の印象だった。場所は確かロンドンはハマースミス近くにあるタウンハウス・スタジオ。友人のM、ロビンスコットが3枚目のアルバム、“フェイマス・ラスト・ワード”を録音していた時のことだ。そこへ今も一緒に生活している愛犬、ジョージをひきつれて姿を見せたのがニック。ロビンとちょっとした挨拶をかわした後、おもむろにスタジオに入りピアノに向かい合う。僕のそばではロビンが懸命にサウンドの打合わせをしているというのに、彼はガラスの向こう側でなにやらキース・ジャレットばりのジャズを演奏しているのだ。当時、テクノ・ポップの代表人物とも言われていたロビンにジャズを演奏するピアニストのニック、その時はそんな組み合わせがなんとも奇妙に思えたものだ。

     そして、その翌年、日本へ帰る直前にサセックスのディッチリングという小さな街にあるロビンの自宅を訪ねた時だ。「すんこいレコードに仕上がったよ。覚えてる?前のアルバムで一緒だったニック。彼のシングルをプロデュースしたんだけど、最高なんだ」と、興奮気味のロビンが聴かせてくれたのか、まだテスト・プレスが上ったばかりの“WHO LIKES JAZZ?”だった。まずは“ジャ、ジャ、ジャーズ”と繰り返すヴォイスが飛び出し、続いて耳に入ってきたのは4ビートを刻むべ一ス。「うわぁ、ジャズじゃない。こりゃぁ面白いや、ホント、すこいよ、これ。絶対ヒット間違いなしだな」と、ひどく感激したのを覚えている。もちろん、それから数年後ロンドンを中心にジャズ・ブームが起こるなんて想像もしていなかったし、僕自身ジャズに特別な興味を持っていたわけではない。でも、ポップスに4ビート・ジャズのエッセンスを融合させ、しかもそれをフェアライトで料理したニックのセンスの良さにまいってしまったとでも言えばいいのだろうか。

     でも、そんな僕やロビンの期待にもかかわらず、残念ながら大ヒットとはなってくれなかったのがこの曲だ。当時、これをリリースしたのはスティッフ・レコード。その後アイランド・レコードヘ移り、ZTTからフランキー・コーズ・トゥ・ハリウッドなどを成功させた人物、デイヴ・ロビンソンがやたらこの曲を気に入っての発売だったのだが、どうやら時代を先取りしすぎていたようだ。ミュージシャンや業界のヒップな人間たちを歓喜させ、カルト的なヒットとはなったものの、そのニュースか日本にまで届くことはなかった。

     それからというもの、僕の頭の中にずっとひっかかっていたのがこの“WHO LIKES JAZZ?”だった。日本に帰国した82年頃、なんとかこれを日本でリリースできないものかと、いろいろレコード会社をまわってみたこともあった。でも、“ジャズねえ…”と誰も相手にしてくれなかったのがその当時だ。「日本のレコード会社ってのはセンスのカケラもないんだな。」と、僕が感じていたのは失望感ばかり。しかも、それからしばらくして輸入盤屋でみつけたその次のシングル、“ヒップ・トゥデイ”がまた素晴らしかった。ロビンのレーベル、アルビオン・レコードからリリースされたこの曲ではジャズにヒップ・ポップをプレンド。さらに磨きをかけたニックのセンスに驚異的な才能を感じていたものだ。

     そのニックに再会したのは昨年の5月、ロンドンでZTTショウケースと題されたコンサートでのことだった。異色のフランス人ヴォーカリスト、アン・ピカールのバックでピアノを演奏していたのが彼。もちろん、ロビンからニックか彼女と一緒に活動していたことは知らされていたので、別段驚きはしなかった。が、ピアノ、サックス、ドラムスにアンのヴォーカルというバンド構成やアレンジのセンスの良さに見えていたのはやはりニックの影だった。というのも、巷でかなり評価を浴びたアンのファースト・アルバムでも1曲を除いて残り全ての作曲を担当したのかニック。クレジットにはルイ・ジャディムの名前があったものの、実質的なプロデュースも実は彼が担当していたのを知っていたからだ。

    「やぁ、ひさしぷりだね。えっ、今はロック・ジャーナリストやってんの?」と、彼とそんな会話をしたのはそのギグの後で開かれたパーティでのことだった。そして、もちろん、その時も話題になったのが僕の、おそらくは最も好きなポップ・チューンのひとつ、“WHO LIKES JAZZ"。「いやァ、あれば絶対早すぎたよ。だって、今頃ジャズがブームになってんだもんね。ロンドンじゃ。なんてのか、86年の今でもヒップに聞こえるじゃない。」と、僕が口にすると、ニックは「いつだって、そんなもんさ。まあ仕方ないってのか…別に気にしちゃいないよ。」実を言うと、あの曲のプロデューザーだったロビンがまたこのレコードを出そうと考えていたのに、噂通りニックは気にもしていないのだ。なんでも、ロビンによると、「ニックって全然欲がないってのか…必死になるってタイプじゃないんだよね。でも、才能あるもんだから、スタジオじゃすごい人気で、たまにレコーディングやって、それで充分楽な生活してるってのかな。いつもノンビリ作曲なんかやって、気の向いた時に自分でテープ作ってんだよ。」なにやら、いつも周りばかりが騒いでいるといった雰囲気なのだ。  でも、その時、あの曲を諦めきれなかったのが今思えばよかったような気がする。「あれ、どうしてももう一度リリースさせたいって思うんだけど…」と言うと、「好きにしたらいいよ。もうステイッフには権利ないし、アルバム分ぐらいのマテリアルは充分あるから。」とニック。それがこのアルバム、しかもニックにとってのデビュー・アルバムがなんと日本で発売されることになった切っ掛けだった。

     かといって、ストレートにここまできたわけでもなかった。なんとはなく、CBS・ソニーのディレクターにこのレコードを渡したのはそれから数ヶ月後のこと。今までの経験もあって、あまり期待はしていなかったのに、それを聴いて言ったのは「こりゃ、すこいや。出ぞうせ!アルバム分の曲あるんでしょ」と、それが始まりだった。まずはニックに電話して送ってもらったのが彼がここ数年間に録音していたデモ・テープ。もちろん、彼の才能は信頼してはいたというものの、そこには“WHO LIKES JAZZ?”に勝るとも劣らない曲がピッシリ詰込まれていたのだ。このアルバムに収録された曲以外にも軽くマイルス・デイビスをパロッたインストやテンプテイションズのリード・シンガーだったジミー・ラフィンがひどく気に入って彼の家でヴォーカルを録音してしまったというソウルっぽいナンバー、“アワ・タウン・イズ・バーニング”…この時はニックのあまりの才能に自分の耳を疑ったものだ。しかも、そのほとんどを彼ひとりでレコーディング。なにやらとてつもないアーティストを発見したような気分になっていた。

     ところが、それに輪をかけたように驚かされたのが彼のアーティストとしての経歴だった。昔通ならアルバム発売前にそれぐらいのことは判ってて当然なんだけど、なにせ、これは彼のデビュー・アルバム。向こうですでにアルバムの出ているアーティストならともかく、バイオグラフィもないというので、結局、彼の自宅でバイオグラフィ作りのために数時間にわたるインタヴューだ。その時出てきたのがティナ・夕一ナーからヘヴン17、さらにデヴィッド・ボウイなどなど。「えっ〜、そんなアーティストとも共演したの?」と驚きの連続だった。しかも、ミック・ジョーンズからのグラッシュへの誘いを断わり、ビッグ・オーディオ・ダイナマイトも袖にしたのがニック。というわけで、その時のインタヴューを元に彼のバイオグラフィをここに簡単に紹介してみたいと思う。

    「55年の8月24日が誕生日。飛行場か近くにあるフェルサムって街で生まれたんだ。だから、ジェット機の音をBGMにこの世に出てきたってのかな(笑)。」と言う彼が初めて音楽に魅力を感じたのは物心ついた頃。もちろん、イギリス人らしくサッカーも大好きだったらしいけど、音楽的環境皆無の家庭で、すでに4歳の頃にはピアノを弾いていたというのが面白い。ギリシャ人の父親はイギリスで人気のTVドラマ、“フォーティ・タワーズ”でコック役を演じていた俳優で、イングランド人の母親は彼によると、「ごく普通の主婦」。家にあったピアノがただひとつの音楽的バック・グランドと呼べるものだったらしい。「ハッキリ覚えてるよ、初めてピアノを弾いた時のこと。天気のいい日で、僕は庭で曲を書いてたんだ。タイトルは“ネズミをくわえた猫”。まあ、子供の遊びで…“大きい音がここで小さくなって”なんてことを書いた紙を今でも持ってるよ。ありゃぁホントのアヴァンギャルドだな(笑)。」
     と、かなりの早熟だった彼が本格的に音楽を意識し始めたのは11歳の頃だった。といっても、誰かに演奏を教えてもらったわけではなく、7歳年上の兄が買ってきていたブッカーT&MG'Sなんてレコードを聴きながらコピー。あとはラジオから流れてくるポップス、例えばキンクズやストーンズを聴いていたというのだ。当時、多くの子供たちが小銭を抱えてレコード屋に走り、シングルを買っていたのにそれもなし。ところが、その翌年、初めて彼が買ったのがなんとチャーリー・パーカーのアルバムだった。

    「なんでか僕もよく判らないんだ。ただ、その頃、毎週日曜日にラジオでジャズの番組があって、その時かかってたのを覚えてたから…たまたまスーパーでそのレコードをみつけて買っちゃったんだ。なんとなくモダン・ジャズが好ぎだったし、その年令でジャズのレコード抱えて学校行ったらカッコ良かったしね。ま、タダの偶然で今もあんまりジャズの知識はないんだけど。」

     ピアノを演奏していたのにサックス奏者のレコードを買ったというのも、奇妙な話だけど、別にピアノにこだわりはなかったらしい。また、ホーンの音が好きで、ピアノよりオルガンの方が好きなのはそのせいかもしれないというのだ。また、曲をコピーするよりはいろんなレコードで気に入ったフレーズをピック・アップ。それでピアノをマスターしていった。ただ、チャーリー・パーカーにはかなり狂ったようで、彼のサックスをピアノで演奏していたあたり、なにかジャズ・ピアノの巨匠、パドパウエルに通じるような気もしてしまうのだ。そして、その時からすでにプロになる気持でいたらしく、初ステージを踏んだのが14歳。といっても、パブでの演奏で、ドラムスの友人とふたりで一日5ポンドを稼いでいた。まともな曲を演奏したわけではなく、ブルースなどに特有なフレーズで遊んでいただけ。「自分たちは楽しかったし、すごく勉強になったけど、まあ、聴いてた人にとっちゃ退屈だったと思うよ。」とは彼の言葉だ。そこにウッド・べースが参加してトリオとなった頃にはけっこう評判だったという。また、学校では仲間と6ピースのバンドを結成。当時好ぎだったというソフト・マシーンを意識してジャズやロックを融合させたような音楽を演奏していた。

     その他にも様々なバンドでセッションしたり、時にはもろジャズのグループでビーバップを演奏したこともあった。でも、いつも不満だったというのだ。というのも、彼自身が最も音楽的に成熟していて、周りの人間からはほとんど学ぷものがなかったからだ。しかも、彼が魅力を感じる音楽といえば、どれも過去のもの。パンクを除けば、ポップ・チャートに出てくる音楽にはほとんど関心を持てなかった。73年にロンドンを離れヨーク州の大学へ入ったのはそのせいもあった。そこで、ソウル・バンドヘ参加。ちょうどモータウンが勢力を持っていた頃で、この時の経験か彼にとって作曲にいい勉強になったという。でも、例によってドロップ・アウト。大学へ入ったその翌年にはロンドンへ帰り、兄貴がスクォッティングしていたフラットへもぐり込む。そこで出会ったジャマイカ人に「ノルウェーへ行こうぜ、仕事があんだ」と誘われたのがプロ・ミュージシャンとして初めての経験だった。さらに、イギリスを出る前に会ったのがインディ・ファンなら記憶にあるかもしれないルーガレーターのメンバー。彼にデモ・テープ作りを依頼され、それを作った後にノルウェー行き。面白いのはそこで彼がレゲエっぽい音楽を演奏していたその3ヶ月だ。ロンドンではデモを気に入ったルーカレーターが彼をメンバーとして認め、ニックが帰った時にはマネージャーからツアー・スケジュール…全てが揃っていたのだ。しかも、彼らはプレスの脚光を浴び、いわば一夜にしてスターになってしまった。

    「ちょうど、パンクか起こりかけてた75年の10月だったと思うんだ。まあ、僕はラッキーだったんだろうけど、あの頃僕らの前座をしていたのがクラッシュやジャム。そうそう、セックス・ピストルズが前座をやった唯一のバンドか僕らだったんだから、笑っちゃうよ。」

     といっても彼らがパンクだったわけではない。ただ並のロックではない奇妙なスタイルが受けたのか、それから1年半ほどはステディなライヴ活動を続けていた。そして、77年ヴァージン・レコードと契約。シングル、“ラヴ・アンド・ザ・シングル・ガール”をリリースし、スマッシュ・ヒットとなった。ただ、この時ヴァージンか魅力を感じていたのはバンドではなく、ニックのソングライティング。自分のグループでもないのに…とギクシャクした気持を感じた彼はこの時にバンドを離れている。

     その時、なんとマネージャーだったロビン・スコットと作ったのかドゥー・イット・レーベルだった。ここで数々のレコーディングに参加した後、彼にとって初めてのソロ・レコードをリリース。そのB面か実はこのアルバムに収録されている“ユア・ドリーム・イズ・ア・ディドリーム”だ。もちろん、多少のリミックスは加えられているが、それが約10年を経た今も魅力的だというのは信じられない。そして、この頃から増えてきたのがセッション・ワーク。まずはトム・ロビンソンのツアーに参加し、初めてのレコーディング・セッションとなったのがジョニー・サンダーズの“LAMF“だ。これはちょうどルーガレーターを離れそうだった頃で、それに続くのはリーナ・ラビッチ。彼女のファーストとセカンドに参加している。もちろん、この時にもツアーのメンバーとしてバンドに誘われたのだか、それも断わっているのが興味深い。

     「いつもなんだよ、レコーディングに参加するとバンドに入ってくれって頼まれるの。でも、僕は自分のアイデンティティをキープしていたいんだ。他人の夢を実現する道具にされるよりは。だって、未だにルーカレーターの頃と比較されたりするわけだし、そういうのって絶対に避けたいって思うんだよ。」

     クラッシュやビッグ・オーディオ・ダイナマイト、さらに最近ではトレヴァ・ホーンの誘いをも拒否したのはそれが理由だった。おそらくはそれほどの才能か彼にあるのがミュージシャン仲間こ伝わったのだろう。彼自身「リストでも作らなきゃ、思い出せない」と言うほどのセッションか続くのだ。インディの名プロデューサー、エイドリアン・シャーウッドの作品群からメジャーのジョアン・アーマドレイディング。ヘヴン17や彼らのB.E.Fプロジェクト、それかティナ・ターナーにつながり、ヴァージンから出たジュジュ・ミュージックのエベネザ・オベイのアルバムではジェイムス・ブラウンばりのオルガンを演奏している。最近ではフィアガル・シャーキィにボウイ。残念ながらここに全てを記すのは不可能に近いのだ。もちろん、ロビン・スコットもそのひとりで、彼がレコーディングしていた時の空時間に録音したのが、“WHO LIKES JAZZ?”だった。

     「ちょうどあの頃、みんな口にしだしてたんだ。“最近ジャズ聴いてんだけど”とか、“ねえ、ホントはジャズは好きなんだろう”って。なにかジャズがヒップってな感じで…だから、それをそのまま曲にしたんだ。そしたら、いつも通り、5年ほどたった今ジャズか最もヒップな音楽になってしまったわけさ。」  そのセンスの鋭さに目をつけたのがアン・ピガール。当時ガールフレンドだった彼女か彼に作曲を依頼して出来上がったのか前述の“青春の彷徨”。彼女とツアーしたこともあったか、やはりその一部になるのか嫌だったらしく、彼女と別れたことも手伝ってまた一人になっている。そして、例によってセッション・ワークを瓢々と続けているわけだ。

     そんな彼の経歴を考えると今回日本で初めて陽の目を見ることになったこのアルバムはニックのベスト・アルバムでもあるような気がするのだ。ロビン・スコットがプロデュースした前述の3曲は70年代後半の彼のベスト。さらにB.E.Fとのセッションで録音していた“クルーズ・ファクター”“バブーン”“ファンク・フランチャイズ”にブッカーTの“グリーン・オニオン”を料理した“オニオン・ラップ”は80年代初めの作品だ。そして、最も新しいのか彼自身でプロデュースした“ジャスト・ライク・ザ・ファースト・タイム”。どれも粒揃いで、アルバムを通して聴くといよいよ感じるのがニックの才能だ。そして、ヒット曲もないのに、彼かなんとワーナー・ブラザースと出版契約を結んでいるのも当然のようにも思えてくる。さらに、そんな彼のアルバムを新しい音楽に敏感なイギリスよりも早く日本でリリースできたことを誇りにも思う。また、できれば、今度は日本で出たこのアルバムをイギリスヘ輸出してヒットさせたいとも思うのだ。彼はそれが充分可能なアーティストだと信じているし、その結果はこれから1年か2年の後にはハッキリ出るようにも思えるのだ。

    86年9月20日執筆

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