いきなり異次元の世界に放り込まれたようなものだった。ラインナップを見る限り、日本で知られているバンドやアーティストなんぞ雀の涙ほどもないというのに、メイン・ステージ前は4万を超える人で埋め尽くされている。しかも、その盛り上がりがとんでもないのだ。もし、フジ・ロックの前夜祭を体験したことがある人なら想像できるだろう。ここで感じたのはたまりにたまったエネルギーが爆発したような騒ぎだ。ステージから怒濤のように襲いかかってくるのは英米とはなにかが微妙に違うロック。そこにオーディエンスの歓声や叫び声が重なって、地の底からモンスターの吠える声でも響いているかのようにも聞こえるのだ。これが初めてスペイン語圏で体験した鳥肌もののロック・フェスティヴァルだった。

会場はヴァレンシアから地中海沿岸を少し北上した町、ベニカシム。国道340号線沿いにある敷地に4ステージを用意したヴィーニャ・ロック・フェスティヴァルと呼ばれるもので、そのメイン・ステージにフェルミン・ムグルサが登場するという情報を入手したのは4月の半ばだった。ここ数年、毎年3〜4月にローマに飛んで、イタリアで最も先鋭的なロック・バンド、フェルミンの盟友でもあるバンダ・バソッティが主催するストリート・ビート・フェスティヴァルを取材するのがが恒例となっているのだが、その最終日が4月28日で、フェルミンがここに出演するのが翌29日。しかも、その翌日には、地元、バスクのパンプローナでライヴとある。それならば、その取材をして、彼とインタヴューできないかとコンタクトを取り、それが今回のスペイン語圏ロック・フェスティヴァル体験に結びついていく。
そこで度肝を抜かされたのがここに渦巻くとてつもないエネルギーや英語圏のロックとは微妙に違った熱を放つロック・ラティーノだった。英米語圏のロックにパワーを感じられなくなった頃、ポロポロと情報が入りだしたのがこのあたりのロック。そのきっかけを作ったのはフジ・ロックやジョー・ストラマーだった。99年にアルゼンチンのトドス・トゥス・ムエルトスを苗場で体験し、その数年後にイギリスのグラストンバリー・フェスティヴァルでジョーから教えられたのがメキシコのエル・グラン・シレンシオ。そして、ラテン語圏ではクラッシュと同じような影響力を持っていたマノ・ネグラの中心人物、マヌ・チャオや前述のバンダ・バソッティ、そして、このアルバムの主、フェルミン・ムグルサが続く。が、ロック・ラティーノにのめり込むのに決定的な刺激を与えてくれたのが今年だったように思う。
まずは日本を離れる前に知り合ったのが、ほとんどプロモーションもなく来日していたバスクのバンド、ベリ・チャラック。明らかにパンクを経由したハードでエッジの効いたメタル系なんだが、日頃そうした音楽には接していないにもかかわらず、完全にはまってしまうことになる。なになんだこの魅力は? と、そんな疑問を持ちつつ、ローマで合流したバンダ・バソッティと向かったベルリンで開催されていた『ムーヴ・アゲンストG8』という小規模なフェスティヴァルで体験したのがアルゼンチンのバンドで、今はバルセローナを拠点に活動しているチェ・スダカ。いわゆるスカ・パンク系かと思っていたら、ライヴが進むに従って生まれた、全盛期のマノ・ネグラにも匹敵するようなエネルギーに反応した会場が異様な熱気に包まれていく。そして、イタリアのタルコ、バスクのベタガリ... 加えて、今回のストリート・ビート・フェスティヴァルで一緒にツアーしたスペインのコンバット・ロック、ボイコットも強力だ。加えて、このツアーでかつて体験したフランスのバーニング・ヘッズも忘れられない。
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そんななかでとてつもない影響力を持っているのがフェルミンであり、今回の取材でそれをまざまざと思い知らされることになるのだ。ちょうどクラッシュのジョーが音楽のみならず、社会的にも政治的に絶大な影響を世界に与えたのと同じように、フェルミンがロック・ラティーノの世界で同じような影響を与えている。それはこのフェスティヴァルでの熱狂で容易に理解できたし、彼とつながるミュージシャンとのネットワークからもうかがい知ることができた。
そのフェルミンを語るにあたって避けて通ることができないのが彼の生まれ育ったバスク。ヨーロッパのどこにも接点を持たない言語を持つ民族とその地域を示すのだが、ルーツは旧石器時代に遡るというが定かではない。問題はスペインとフランスにまたがる北部のこのエリアがフランコの独裁政権下、70年代終わりまで徹底的な弾圧を受けていたということだ。言語を禁止され、文化を破壊されたと言ってもいいだろう。それは彼が教えてくれたこんな逸話からも充分に想像できる。
「子供の頃、ピクニックで、山のなかの誰もいないところに行くんだ。そこで靴下の内側に隠していたバスクの国旗の色を見せる。そんな時代だよ。12歳の頃に国旗を持っているのがみつかって、警官にぼこぼこにされたこともある」
信じがたい弾圧のもとで抹殺されかかったのがバスクだった。その歴史はアイルランドあたりに重なるし、世界中で抑圧を受けている民族や人種にもつながっていく。そのフランコ独裁が終わった頃がパンクからザ・スペシャルズに代表されるスカ・リバイバルに重なっていくのだ。当時、学生だった彼はその影響をもろに受けていく。
「ストリートで石を投げるのではなく、音楽で闘うことができる。そう思ったんだ」
そして生まれたのがコルタトゥ。フェルミンのギター&ヴォーカルと弟のイニゴによるベースにドラムスが加わったトリオなんだが、ロックと言えば英語でやるのが普通だった時代に、彼らはまずスペイン語で、そして、バスク語で歌い始めていく。それがラテン語圏のロックに大きな影響を及ぼすのだ。
「バスク文化を復活させなければいけないという運動もあった。同時に、自分の言葉で歌うのは当たり前じゃないか! 俺たちだって、英語が話せないのにクラッシュを聞いているんだから」
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ビジネス的にはスペイン語の方が有利なのはわかっている。が、風前の灯火のようになっていた言葉、バスク語で歌うバンド、ネグ・ゴリアックが非英語圏のロックに大きな影響を与えるのだ。「自分の言葉でロックする」運動を触発し、マノ・ネグラやトドス・トゥス・ムエルトスやバンダ・バソッティとの密接な関係も始まっていた。同時に、そんな姿勢がオルタナティヴなネットワークを生み出していったという。アメリカのフガジからジェロ・ビアフラ、レイジ・アゲンスト・ザ・マシーン、フィッシュボーン、イギリスのレッド・スキンズやチャンバワンバ... そんなつながりはソロ活動でさらに拡大されていった。地元のハードコアのバンド、ドゥットでのゲスト的な作品を経由して発表したのがソロ・デビュー作『ブリガディスタック・サウンド・システム』。これは世界中を旅して数々のミュージシャンとコラボレーションを重ねた結果であり、次いでスカからレゲエやラテン的な部分を強調した初来日時のプロジェクト『FM99.99 ダブ・マヌフェスト』へと発展していく。フジ・ロック'01のクロージングとして登場したのがこのバンドだ。
その後、「まるで平行して活動しているようだ」という同志的存在、マヌ・チャオとのライヴ・プロジェクトを挟んで、アコーディオンによるトラッド的な要素やターンテーブルを使ってのヒップホップ的要素までを飲み込んだ『インコムニカシオア』を発表。このプロジェクトでのバンドがコントラバンダで、それがフジ・ロック'04でのライヴだった。
今回のアルバムはそれに続くソロ4作目で、これまでとの大きな違いは全編ジャマイカで録音されていることだろう。
「昔からパンクとスカやレゲエが自分にとって最も大きな影響だった。だから自然な成り行きだったんだ」
約1年を費やして楽曲を用意。録音にはコントラバンダのアコーディオン、ハビ・ソラノとトロンボーンのジョン・エリザルデが同行しているんだが、その時の様子はヨーロッパで発表されているDVDに収録されているドキュメンタリーに詳しい。そこでわかるのは、録音に参加したミュージシャンや現場の人たちが独立と自由への戦いを続けるバスクに強力なシンパシーを感じていること。それは貧困と差別に直面する第三世界のジャマイカにも通じる。また、チェ・ゲバラやフェデル・カストロともつながっていた独立運動の父、マイケル・マンリーがフェルミンに重なったのかもしれないし、ボブ・マーリーへの接点も見えたのだろう。おそらく、彼らは同じ苦しみや怒りを共有し、闘う仲間としてフェルミンを受け入れたのではないかと察する。なにせ、彼はお題目を唱えるだけの似非ラディカルではない。パレスティナに対するイスラエルの殺人行為を阻止するために現地に向かって抗議運動もしている。歌詞をじっくりと読んでもらえればわかるのだが、彼の歌はきれい事のメッセージではなく、闘いそのものであり、共闘への呼びかけなのだ。ちょうど「バスク・サムライ」という曲で「言葉は刀だ」と歌っているように、理解不能なバスク語でも、音楽が雄弁にその「意味」を語りかけてくれる。多くのミュージシャンやファンは、闘う彼のそんな音楽に共鳴し、つながっているのだ。
そんな流れのなかで予定にはなかったアイ・スリーズやルチアーノといったアーティストのレコーディングへの参加が生まれたという話も聞いている。また、このセッションを通じて、仲良くなった伝説的なミュージシャンのひとり、フランクリン・バブラー・ウォルはライヴにも参加。今回、スペインからバスクで体験したのは、キューバ人からジャマイカ人、バスク人にスペイン人といったメンバー11人でのツアーだった。
そのフェルミンは7月に初めて中国でのライヴを敢行。当然のように日本でのライヴも予定されている。そういったライヴやこのアルバムを通じて、彼の「歌」がバスクから遙か彼方の、アジアの闘うロック・ファンにも伝播することを願って止まない。
2007年5月9日
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