数え切れないほどの喜びや楽しみと、あるいは、苦しみや悲しみや怒りを積み上げてKEMURIが『千嘉千涙』というアルバムを作り上げたとき、やっとKEMURIというバンドが生まれたんだと思う。あのアルバムが発表された頃、幾度となく、そんなことを書いたり、口にしていた。
もちろん、正確に言えば、KEMURIというバンド、あるいは、そんなコンセプトが生まれたのは遙か以前にさかのぼる。95年6月、ヴォーカルのフミオがベースのツダと一緒に、まるで共同生活をするようにして録音したのがKEMURIと名付けられることになるバンドのデモ・テープ。それは「日本を飛び出してアメリカに永住しよう」と決意したフミオが、日本を離れる直前に「アメリカの人たちへの名刺代わりに」録音したものにすぎなかった。その頃、ライヴも一度やっているのだが、当時から現在までメンバーとして名前を連ねているのはベースのツダのみ。彼らに聞くと、KEMURIというバンドを続けていくという意志は、少なくとも、この時には全くなかったというのだ。
ところが、渡米後、ありとあらゆるレーベルにテープを送り、ライヴなどでバンドとコンタクトを取っていった結果、あるインディ・レーベルから発表しないかという話が転がり込んでくる。そんなプロセスを経て、バンドへの可能性を感じたフミオは幾度か帰国して、KEMURIとしてのライヴを試みるのだ。が、体験するのは、フミオ曰く、"挫折感ばかりだった"という。加えて、まだその頃のフミオが日本に腰を落ち着けてバンドのリハーサルを続けていくこともなければ、ツダも自分のバンドとして続けていく決意はなかったようだ。また、アメリカ向けの録音でKEMURIに合流したドラムスのショージも「サポートでしたから」と当時のことを語っている。実に、この時点でもKEMURIは明確なバンドではなかったわけだ。
そして、セミ・メジャーのロードランナーとの契約が決定し、初のアメリカ・ツアーとデビュー・アルバムの録音に入っていく。
「まじぃ? アメリカで録音できるんだぁ!」
いつだっけか、ツダ君が「それだけでも幸せでしたよ」と話してくれたことがあるのだが、この時点でのメンバーは上記の3人にオリジナルのギタリストだったT君が加わったもの。ホーン・セクションは、以前のショージのようにサポート的な存在でしかなかった。
が、アルバム『リトル・プレイメイト』を発表し、徐々にライヴを重ねていくことで着実に支持を獲得していったのがKEMURI。その間に、アメリカからマネージメントをしたいとコンタクトがあったりと、なにかが動き始めていた。そして、決定したのが、かつてKEMURIの曲を収録したコンピレーションをアメリカで発表していたインディ・レーベルの主で、彼らの友人でもあるミュージシャン、マイク・パークが企画した全米ツアー、Ska Against Racismへの参加要請だった。さらには、それをきっかけに再びアメリカで、今度は彼らが敬愛するバンド、デセンデンツ(&ALL)のメンバーをプロデューサーに新しいアルバムを録音するというものだった。
が、このアメリカ行きの日程は、このアルバムのタイトルとなったように『77DAYS』と、2ヶ月半にもおよび、これによってメンバー変更を余儀なくされるのだ。明確なコミットメントと決意を持っていたフミオ、ツダ、ショージはバンドでの活動を続行。残念ながら、ギターのT君は家庭の事情などで続行をあきらめることになる。現在のKEMURIにつながるバンドの骨格が生まれ始めたのがこの頃だった。
以前からフミオと親交があった元ミュートビートのマスイが、ホーン・セクションの要としてバンドに合流。彼の交友関係からトランペットのリョウスケ、サックスのコバケンが加わり、ギターの南もバンド加入を決意することになる。
「最初のライヴは3月の恵比寿ギルティ。それから即アメリカ・ツアーですからね」
と、当時のことを話してくれたのはコバケン。バンドのほぼ半分がそんな「真新しいメンバー」として渡米し、22000kmに及ぶSka Against Racismツアーを乗り切った後にコロラドで録音したのが『77DAYS』だ。
帰国後のツアーが大成功し、東京で開かれた2回目のフジ・ロック・フェスティヴァルに出演。この頃から、彼らの圧倒的なライヴが噂を呼び始め、急速にインディ・シーンでの人気を獲得していくことになる。
今も好調なセールスを続けるこのアルバムが発表されたのは98年9月。その後に企画された初の全国ツアーも即日完売を記録し、最終的にこのアルバムは20万を超えるセールスを記録することになる。いわば、最も注目されるホットなバンドとしてKEMURI人気が急速に加速されるのだが、それでもバンドがバンドとして結束しているのかどうかというとまだ疑問が残っていた。
「アメリカ・ツアーが終わった時は、メンバーだって認識なかったですから...」
いつかトランペットのリョウスケがこんなことを話してくれたこともある。どこかで運命共同体的なバンドへと成長していくことになるKEMURIはこの時点でもまだ生まれていなかったわけだ。
順調にアルバムが売れ、人気も獲得し、「ライヴのチケットを最も入手しにくいバンド」となった99年、KEMURIは精力的にツアーをこなしていく。3月に「空」、5月に「海」、10月には「凪」と、3回にわたる国内ツアーを経て、12月にはなんとフランスでもツアー。その成果は12月の大阪公演をライヴ録音した『旅』で如実に現れている。いわゆる音楽事務所に就職して月給をもらっているようなパンクもどきではなく、なによりもDIY(Do It Yourself)精神を地でいく彼らが、ありきたりな産業ロックでは当然の「金」と「メディア」の利用を完全に否定し、なによりもオーディエンスとのつながりのなかで「歌」を伝えていくというストイックなまでの姿勢を貫き通していったのだ。
そんな彼らの様子を見ていると、全てがうまくいっているかのように思えたものだ。一時、ルティーン化したかのような「まぁいいんじゃないの」的なライヴを見せる時期もあったが、彼らが謳うPMA(肯定的精神姿勢)は、確実に彼らを進化させ、ライヴでこそ本領を発揮する素晴らしいバンドに成長していた。
ところが、前作『千嘉千涙』録音を直前にホーン・セクションの要であったマスイが脱退。聞くところによると、「バンドの方向性」や「健康上」の問題で彼がバンドを離れたらしいのだが、KEMURIの誕生に大きな影響と助けをくれた彼がその役目を終えたと見る筆者の見方は間違っているだろうか。逆に言えば、だからこそ、この時点でKEMURIというバンドが生まれたように思える。
「一時は、バンドなんてやめてしまおうかとも考えましたから」
この時、フミオはそう語っていたものだ。もし、代わりにトロンボーン奏者を入れてアルバムを録音するという安易な方法論をメンバーが採るとしたら、実をいえば、今こうして聞くことのできるKEMURIも、圧倒的な感動を与えるライヴを演奏してくれるKEMURIも存在しなかったことになる。
が、「バンドってそんなものじゃない」と全員が決意して、あの名作『千嘉千涙』が生まれているのだ。どこかで要だったメンバーが抜けたことによる緊張感や切迫感があったのかもしれないが、それと同時に「やっと自分たちのバンド」KEMURIが生まれたんだという喜びもあったんだろう、あのライナーで書いたとおり、これは日本のロック史に残る名作に仕上がっている。
さらには、そのアルバムの録音と平行して、彼らが『東風(コチ)』という雑誌も制作。ツアーと時を同じくして創刊となる。バンドと常に行動を共にするノゾムを含め、全メンバーが彼らの個人史を記録しているこれは、記念すべき彼らの書籍によるデビュー作であり、ファンには絶対に読んでもらいたい傑作だ。その表紙にはこう記されている。
「コチとははじまりのことです....」
まさしく、この時、初めてKEMURIという完全なバンドが生まれ、動き出したということだろう。このアルバムを期に始まった全国ツアーは4ヶ月にも及ぶもので、まずは東名阪と福岡の中規模な会場を皮切りに、続いて全国津々浦々の小規模なライヴハウスを網羅。そして、最後の全国の主要都市を再び巡るというもので、ライヴ・バンドとして鉄壁となったKEMURIの姿をここで確認してファンになった人も少なくはないだろう。筆者自身、このツアーは10数回も体験している。東京はもちろん、帯広から北見、旭川、札幌の北海道、米子から岡山、広島といった中国地方、さらには名古屋から最終日となった仙台まで彼らを追いかけながら、取材したものだ。わずか百人も入れば満杯となって身動きが取れなくなるほどのちっぽけな小屋や、なんとタマネギ倉庫を改造して造られた小屋から、最も大きい会場となった東京の赤坂ブリッツ(といっても、チケット発売10分でソールドアウトを記録)まで、どこでも彼らの演奏は限りなくホットで感動的だった。そのツアー取材をまとめた原稿で、こんなことを書いたものだ。
「どの町のどの小屋でも感じることができたのは『千嘉千涙』には収めきれない無数の人たちの『万嘉万涙』ではなかっただろうか...」
演奏がうまくいかなかったこともあるだろうし、機材のトラブルだって何度も経験しただろう。ツアーを通じてほとんど風邪気味だったメンバーもいたほどで、体調も万全じゃなかったこともあっただろう。実際、とんでもない奇跡のようなライヴを毎日続けていくことは不可能だ。が、それでも、彼らが手抜きのライヴをやったことは一度もなかった。どこでも、感動があり、幸せな表情を見せるオーディエンスの顔があった。思うに、切り離すことのできないKEMURIとオーディエンスの絆がよりタイトになったのがこの時。彼らが旅で出会った人々との、それこそ数え切れないほどの喜びや楽しみや、苦しみや悲しみや怒りがアルバムに収めきることのできない『万嘉万涙』を生み出していたように思える。
それを見事にとらえていたのがBSフジによって撮影された彼らのドキュメンタリーだった。まだまだ衛星放送が普及しているとは言い難いので、どれほど多くのファンがこれを見ることができたのか、疑問に思うのだが、「初めて一度も間違わないで演奏できた」
と、ツダに言わせた最終日、仙台での演奏をとらえたこれは、KEMURIの財産とも言える貴重な記録だ。また、ここだけではなく、名古屋から東京をも追いかけて、素顔の彼らをとらえようとした制作スタッフのKEMURIに対する愛情と執念が詰め込まれたこれはぜひともなんらかの形で発表してくれないかと思っている。
KEMURIはそれから北海道でのイヴェントに出演し、東京でThug Murderという、めちゃくちゃな迫力を持つ女性3人のパンク・バンドのライヴにシークレットでゲスト出演した後、しばらくの充電と休息を取っている。今回のこのアルバム『emotivation』は、それから数ヶ月後に北海道のスタジオで全員が合宿するような形で録音されたものだ。その内容に関して多くを語るスペースはないのだが、しばらくファンの前から姿を消していたKEMURIがとんでもない演奏を見せてくれたのが今年のフジ・ロックだったことは記しておきたい。
フジ・ロックをこよなく愛し、今回は3日間を通して、会場で過ごすことになったのがフミオ。そんなところからか、初日の幕開けに会場で最も大きいグリーン・ステージに登場したのがKEMURIだった。さすがにステージの規模も大きいというので、かなりナーヴァスになっていたようだが、いつも通り、素晴らしい演奏を見せてくれたものだ。
が、なによりも驚異的だったのは翌日のトリとして、会場内では比較的小規模なステージ、フィールド・オヴ・ヘヴンに姿を見せたときだろう。グリーン・ステージではニール・ヤングとクレイジーホース、そして、ホワイトではニューオーダーと、伝説的なアーティストが演奏していたこともあって、昨年並にオーディエンスが集まってくることはなかった。が、おそらく、この時の演奏は、『千嘉千涙』ツアーの最終日、仙台をも遙かに越えた涙もののライヴだった。曲数が多いとか、演奏が良かったとか、音楽だとかロックだとか、そんなものを越えて、この時、音楽を通じてオーディエンスとミュージシャンがとんでもない奇跡のような時間と空間を生み出せるのだということを証明してくれたような気がする。
「いやぁ、ニール・ヤングはあんなものでしょ。別に悪くもないし、素晴らしいアーティストだということは疑問の余地はないんだけど、突き抜けた感動がなかったというか... でも、KEMURIはその百万倍も素晴らしかったですよ。心臓がバクバクするような興奮や感動があったから。それって、簡単には説明できないけど」
毎年、フェスティヴァルが終わりに近づくと、そのスタッフとして仕事をしている筆者が某TV局のインタヴューを受けるのが恒例となっているんだが、その時口にしたのはそんな言葉じゃなかったかと思う。KEMURIは、ライヴに関する限り、日本でベスト・バンドのひとつである。その確信を完全なものにしてくれたのがこの時の演奏だった。
ちなみに、筆者の友人で、KEMURIと同じく惚れ込んでいるバンド、スリーピースをイタリア・ツアーに招聘した現地の友人がこのふたつのライヴを体験しているのだが、「絶対にKEMURIのツアーをイタリアで実現させたい」と興奮気味に話していたものだ。今の段階ではそれが実現するのかどうか、全くわからないが、もし実現すれば、KEMURIはローマで数万人の前に演奏することになるはずだ。その時、イタリア人のオーディエンスがどんな反応を見せるだろうかと想像するだけで嬉しくなってしまうのだが、それはけっして筆者だけではないと思うのだが、どんなものだろう。
2001年8月26日
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