振り返れば、スタジオ録音での前作『77DAYS』でライナーノーツを書いてからもう2年。ということは、KEMURIと知り合って、すでに3年近くが過ぎたことになる。
正確に言えば、初めてリーダーのフミオに会ったのは97年9月21日。そして、その翌日に新宿ロフトでKEMURIのライヴを初体験している。あの時は5〜6バンドが出演して、彼らの出演は最後から2番目だったろうか。もちろん、その演奏に惚れ込んだからこそ、彼らとのつきあいが始まったのだが、残念ながら、当時、KEMURIにはヘッドライナーとしてライヴを開くほどの人気はなかった。というよりは、彼らの存在自体が知られてはいなかったと言った方がいい。
ところが、韓国系アメリカ人、マイク・パークが企画したアメリカでの「Ska Against Racism」ツアーへの参加決定あたりをきっかけにKEMURIを取り巻く状況にに大きな変化が生まれてくる。まずは98年1月25日に渋谷On Air Westで開かれた初ヘッドライナー・コンサートが記録的なソールドアウトとなり、渡米直前の3月3日に恵比寿ギルティでやったフリー・コンサートも超満員。このあたりからとんでもない勢いで彼らの人気が急上昇していくのだ。
そして、全長22000Kmの全米ツアーを経て、デセンデンツのメンバーをプロデューサーにセカンド・アルバム『77DAYS』を録音。そのあたりは前作のライナーに詳しく記しているが、驚異的だったのはそれから帰国しての1年間だった。
まずは帰国後初のライヴとなった大阪はベイサイド・ジェニー。会場を包み込んでいたのは、なにもしないでただ彼らを見ているだけでもTシャツがねっとり汗ばむほどの熱気だ。熱狂的なオーディエンスのパワーがまるで沸騰しているような空気を生み出し、なんと小屋の壁までもが汗を流している。これまで無数のライヴを体験してきたが、これほどの熱狂を感じたことはなかった。
そして、その帰国ツアーから『77DAYS』ツアーへと雪崩れ込み、翌99年には「空」「海」「凪」というツアーが連続。なにやら年中ライヴを続けていたような気もする。また、ライヴでこそ輝きを増すのがKEMURI。ツアーにつれて確実にレコード・セールスも伸びていった。今では当たり前のようになっている企業タイアップや大宣伝なしで、20万枚近くが売れたのは驚異というしかないだろう。
そんなライヴのなかで最も記憶に残っているのは、わずか10分でソールドアウトになった99年3月の赤坂ブリッツ公演だ。当然のように、ステージ前から最後方までびっしり埋まったのがオーディエンス。しかも、そのほぼ全てがKEMURIの音楽で踊り、一緒に歌っている。この時のライヴの模様を自分のホームページでレポートしているのだが、彼らをサポートし続けていた人間として、まるで自分のことのように嬉しかったものだ。実を言えば、その時、ちょっと涙ぐんでしまったのがフミオ。実は、そのことも書いている。
「あんなことまで書かないでくださいよ」
それを読んだ彼が笑いながら、文句を言っていたのが懐かしくも思えるほどだ。
が、そのレポートで「これはまだまだ始まりに過ぎない」とも記している。そんな言葉が出てきたのは、KEMURIにまだまだ未知の可能性を感じていたからであり、期待していたからでもあった。正直言って、たかだかアルバムが売れたり人気が出たこと、わずかばかりアメリカをツアーしたことにそれほどの意味は感じない。そんなバンドやアーティストなら星の数ほどもいるのだ。
が、KEMURIにはそんな月並みな「成功」とは次元の違ったなにかを感じるのだ。それを言葉で説明するのは容易ではないのだが、初めて彼らを体験して以来、ずっと彼らから受け止めていたのが、聞く者を突き動かさざるを得ない衝動のようなもの。それはただ消費される「音楽」ではなく、彼らが口にするPMA(肯定的精神姿勢)にもつながる、前向きに生きる、ある種の糧や支えのようなものと言ってもいい。彼らを聞く度にエネルギーを与えられ、「よし、もうひと踏ん張りだ...」という気持ちが生まれてくる。しかも、彼らは説教やアジテーションをしているわけでもないのに、なにかとてつもないものがヒシヒシと伝わってくるのだ。
が、ある時期、彼らのライヴを見てなにかが欠けていると感じたことがあった。もちろん、壮絶なまでのパワーやエネルギーをいつもライヴに求めるのは無理に決まっている。が、あの感覚はそれではなかった。だからこそ、フミオにもそれを話したことがある。おそらく、どこかで彼もなにかを感じていたのだろう、彼がそれを否定することはなかった。
思うに、ストイックなまでに「あるべき」姿勢を保ち続けているのがKEMURIだ。全てを否定するわけではないが、パンクとは名ばかりに事務所と契約して月給をもらっている「アーティスト」が幅を利かせる時代に、あくまで自ら全てをコントロール。売れてくれば、安易な金儲け話も転がり込んでくるし、メジャーがやるような企業タイアップもあるはずだ。が、彼らは妥協することなく、DIY(Do It Yourself)の精神を貫き通している。それだけに彼ら自身が様々なプレッシャーに直面しなければいけない。おそらく、いろんなことで頭を悩ませ、苦しんでいたはずだ。
おそらく、それを乗り越えるきっかけを与えてくれたのが99年暮れのフランス・ツアーだろう。なんとかアルバムは発表されてはいるものの、どれほど小さな小屋だって満杯の人を期待できるわけもなく、言葉も通じない国で演奏を続けなければいけないのだ。
「なによりも歌いたいから歌うんだ... って、それを再確認できたツアーでしたよ」
フランスから帰国して数日のうちに録音されたライヴ・アルバム『旅』の発売を前にフミオとインタヴューした時、彼がそう口にしていたものだ。だからこそ、あれほど素晴らしい、しかも、真正直なアルバムが生まれることになるのだ。演奏のミスとか、歌詞の間違い... それをもそのままに記録したこのドキュメントはKEMURIがひとまわりもふたまわりも成長したことを雄弁に物語っている。
それでも全てが順調に動いていたわけではない。度重なるツアーでの消耗やバンドに対する姿勢や考え方の違いからホーンの核をなしていたトロンボーン奏者、マッスルが脱退。正式に彼がバンドを抜けたのは2月29日とされているが、それまでに様々な紆余曲折があり、これにはバンドもかなり悩み、苦しんだと聞いている。ここまで書いていいのかどうかとも思うのだが、いつだったか、フミオに「本当は音楽なんてやめてしまおうかと思ったこともありましたから」と言われたこともあった。おそらく、いろいろなことが重なって、苦しみ抜いたということなんだろう。
が、もちろん、KEMURIの炎が消えることはなかった。というよりは、逆にかつてないほど激しく、眩しく燃え始めたようにも思えるのだ。それを見事に証明しているのが、2年ぶりのスタジオ録音作となるこのアルバム『千嘉千涙』。ツダのベース、ミナミのギター、ショージのドラムスが、かつてないほどのタイトさと力強さをはじき出し、サックスのコバケンとトランペットのリョウスケの二人となったホーンも全く厚みを失ってはいない。まるで吹っ切れたかのように迫るのがフミオのヴォーカルなら、それを援護するコーラスも限りなくたくましい。というより、6人となったKEMURIが、個々のミュージシャンの集まりではなく、完全な一枚岩としてとてつもないパワーを放っているのだ。
それだけではない。このアルバムに収められている歌をよく聞いてみれば、これまでのKEMURIと明らかな違いが伝わってくる。初っ端に持ってきた曲を聴いてみるだけでもそんな決意がわかるはずだ。「人生は1回、後悔はしない」というこの曲で彼がなにを歌っているのかじっくりと耳を傾けて欲しい。また、おそらく、吉野川の河口堰問題にインスパイアされたんだろう、「kirisame」ではより焦点の定まったKEMURIのスタンスが明確に現れている。言葉を代えれば、ここで聞くことのできるのは、まるでさなぎから蝶にふ化したかのような新しいKEMURIであり、だからこそ圧倒的な迫力を持っているのだ。
「最高傑作ですよ!」
と、フミオ本人が言うまでもなく、これはロック史上に残る傑作だ。しかも、他の誰がプロデュースしたのでもなく、これを生み出したのはKEMURIであり、いつも行動を共にしている仲間達。加えて、エフェクターなどを極力抑えた限りなくライヴに近い生身の歌と演奏をここに詰め込んでいる。とんでもないアルバムを作り出したものだ。
もちろん、このアルバム発売と同時にツアーだ。4ヶ月も続くロードが待っているのだが、そのリストには彼らが訪ねたことのない町がいっぱい含まれている。それもKEMURIらしい。そう、できるだけ多くの人に出会い、歌いたいのだ。また、なによりも彼らを支えているのがファンだということを十二分に理解している彼らが、自ら雑誌を作る計画も進行中で、このアルバムが発表される頃には完成しているはずだ。そこでさらにKEMURIを知ってもらえればこれに越したことはない。
最後に一言いわせてもらえれば、KEMURIのみんな、ありがとう。僕はあなた方と出会えて本当によかったと思う。それに、あなた達のファンも素晴らしい。ファンのみんなにもありがとうという言葉を贈ってライナーを締めくくりたい。
2000年7月8日
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