大ヒット作、Buena Vistaを仕掛けたプロデューサー、
ニック・ゴールド氏に訊く...
「実は、どれもこれも偶然の産物っていうのか... 気がついたらこうなっていたんだよ」
どこか映画俳優、ロバート・デ・ニーロの若かった頃に似た表情を持つニック・ゴールド氏はそう話し始めていた。すでに全世界で200万枚を売るという、ワールド・ミュージック界では異例ともいえる大ヒットとなってしまった「ブエナ・ヴィスタ〜ソーシャル・クラブ」や60万枚の売上げを記録しているイブラヒム・フェレールの作品など、キューバ音楽の一連のアルバムを次々と送り出しているロンドンのインディ・レーベル、ワールドサーキットの主宰者で、エギュゼキュティヴ・プロデューサーでもあるのがこの人物だ。
噂では寡黙で、インタヴューにはあまり応えてくれないということだったのだが、なんとか彼とコンタクトが取れたのが99年11月下旬。いかにして彼が音楽やアルバム制作に巻き込まれるようになっていったのか、そのあたりから尋ね始めていた。
「子供の頃からブルースが好きで、それからジャズ、レゲエやロックステディって広がっていったんだけど、なによりもジャズ・ファンでテナー・サックスが好きだったんだ。でも、アフリカ音楽に関しては、大学に入るまでほとんど聴いたことはなかったんだよ」
ワールド・ミュージックの世界で大きな地位を占めているのがこのレーベル。その中心人物なら根っからのアフリカ音楽ファンだろうと思っていたらそうでもなかった。
「一時大学を離れて復学しようとしたら、アフリカ史を取らなきゃダメだって羽目になったところから始まったというのかな。まぁ、それ自体はあまり面白くなくて... 当時はマルクス主義とか政治的な思惑が絡んだ思想的なものが大きかったから。ただ、これがきっかけでアフリカ音楽を聴くようになったんだ」
イギリスではワールド・ミュージックがまだ話題にもなっていなかった80年頃の話だ。
「スターンズ(英国最大のワールド・ミュージック系ディストリビューター)がまだ電気屋で、その奥でレコードを売っていた時代さ」
が、そのしばらく後に素晴らしい展開を見るのだ。サッチャー政権に潰されてしまうことになるGLC(大ロンドン市)という行政組織の市長となったのが労働党のケン・リヴィングストン。彼が次々と画期的なイヴェントを企画し、その流れのなかで多くのアフリカ系ミュージシャンのライヴがほぼ無料で開催されるようになっていく。
「ちょうどアイランドがキング・サニー・アデと契約したり... ユッスーやフランコがロンドンに初めてやってきてライヴをやった、そんな時代さ。まだ僕自身本格的に音楽の仕事には絡んでいなかった頃なんだけどね」
その彼がどうしてレーベルの運営に巻き込まれ、プロデューサーとなっていったのか?
「大学を出て週の半分はレコード屋で働いて、あとはヴォランティアで地元のコミュニティ向けにコンサートを企画したりしてたんだ。そうしたら、バンドのレコードが欲しいという人が出てきて... ただレコード屋で働いてるというだけでいろんなことを頼まれるようになったんだよ」
さらに、レーベルの前身ともいえる小さな会社でレコード部門を任されるようになる。ところがそれが楽しくて、どんどんのめり込んでいったらしい。
「最初に手を着けたのはスーダンの音楽で、それはすでに録音されていたものにジャケットの制作をしたりプロモーションをしたりって感じ。当時は、アフリカ音楽だというだけでプレスに載ったりした時代だから、ずいぶんと楽だったよ。それから自分で初めてケニヤのバンドのアルバムを作ったり...」
そのプロセスでプロデューサーとしての腕に磨きをかけていったという。
「なによりも当時の作品に欠けていたのは、少なくとも西洋のマーケットでリアクションを得られるようなレパートリーを選ぶことだった。こういった音楽に慣れてないとどれも同じように聞こえたりするから、そういったディレクションを与えることが仕事の第一歩となっていったんだ。一般的にはエギュゼキュティヴ・プロデューサーというとただ金を出しているだけって感じで見られるけど、実際はそうじゃなくてね。スタジオやエンジニアの手配も含めてプロデューサー的なこともしているから... 最近はそのあたりを一般の人がもっと理解してくれればって思うね」
すでに30枚ほどのアルバム制作を手がけているのだが、そんななかで大きな転機をもたらすことになったのが、彼にとって初期の作品となるアリ・ファルカ・トゥーリとのアルバムだったという。
「アリの隣に息を殺して座って録音するんだ。彼は1曲が終わると、こっちに向かって目で合図さ。『よかった?』って。で、OKを出すと数秒後に次の曲に入っていく。実は、そうやって生まれたのがあのアルバムなんだ」
まるでブルースのルーツを示したかのようなこの作品は当時、日本でも大きな話題になっている。それが今回のキューバ・プロジェクトで大きな助けになったライ・クーダーとの接点を生むプロジェクトになっていった。
「ちょうどレーベルを始めた頃のことさ。自分の家のベッドルームに事務所があって... そんな程度だったある日、電話が来てね。受話器を取ったやつが『アリのことで、ライ・クーダーから』って言うから、『冗談よせやい』って電話に出たら本人だもんね。(笑)ビックリしたよ、あの時は」
そりゃぁそうだろう。なにせ、ニックがいつも新譜を楽しみにしていたアーティストのひとりがライ・クーダー。その本人から電話が入ってきたのだ。
「これもラッキーだったんだけど、その時、アリはイギリスをツアー中で、うちに居候していたんだ。だから、話が早かったというのか... リトル・ヴィレッジのライヴでロンドンにいたライがうちに来て、1本しかないギターをアリととっかえひっかえしながらいろんな話をして... 『いつか一緒にやろう』ってことになったんだ。っても、それから何度連絡してもなかなか具体的にはならなくて... とりあえず、アメリカをツアーするときにライが住んでいる町で数日間をオフにして、彼の好きなスタジオを押さえることにしたんだよ。新しいアルバムのゲストで1曲でも入ってくれればいいと思って。でも、この時点ではそれさえもが本当に実現するかどうか... 確証なんてなかったんだけどね」
ところが、実際にやってきたのがライ。1日だけかと思ったら結局スタジオを借りていた3日間、毎日彼がやってきて、結果としてレーベルの歴史最大のヒットとなる35万枚を売るアルバムが生まれることになったのだ。
「たったの3日間で録音されたアルバムだよ。といっても、それからが大変で... なにせライといえばハリウッド映画でいっぱい仕事をしている人物でその弁護士が頭痛の種でね。でも、ライ本人がこれをどうしても世に出したいってからなんとかなったって感じなんだ」
このアルバムでの成功で、ワールドサーキットはベッドルームの事務所から3人が常時働くレーベルと成長。そのしばらく後にキューバ・プロジェクトが浮上するのだ。
「キューバ音楽にはアフリカから入っていったんだ。実は、西アフリカで昔から人気があって、アリあたりから40〜50年代のキューバ音楽をいろいろ教えてもらったんだ。だから、マリのギタリストとサンティアゴのミュージシャンを組み合わせてアルバムを作ろうというアイデアが生まれてきて... それが発端となってどんどん発展していったんだ。だって、考えても見てよ、ジャズ界で言えば、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーとか、もう死んでしまったような巨人と同世代の、同じような巨人がキューバでは生きていて、演奏しているわけさ。これを放っておけるかい?というので、準備に取りかかって、決行3週間前に、ライに来ないかってファックスを送ったら1時間で返事が来たんだ(笑)」
もちろん、それまでにコンスタントにライとのコンタクトが続いていたからこそ、こういったレスポンスがあったのだろうが、この反応の素早さにはライのプロジェクトに対する期待が込められていたことも想像できる。
ところが、最初に取りかかったアフロ・キューバン・オールスターズの録音時に最悪のニュースが入ってくる。なんと録音に参加する予定だったマリのミュージシャンのパスポートが消えてしまうというアクシデントに見舞われるのだ。
「それでライに連絡したんだけど、かまわないからやろうってことになってね。一方でミュージシャン探しが始まるわけさ。すでに契約していたエリアデス・オチョアといったミュージシャンの他にアフロ・キューバンの録音中にメンバーをチェックしたり、彼らに尋ねたり... ライからは『なんとかゴンザレスってピアニストがいたと思うんだけど』って問い合わせが入ってきて、『隣に座ってるよ』って応えたら、『間違いなく本物だろうな』なんて声が聞こえてきたり...(笑)ともかく、そうやってみんなを集めたんだ」
ライがキューバに到着した頃には、すでに地元のミュージシャンたちは和気あいあいとした雰囲気ができあがっていたという。
「キューバではほとんど相手にされないような昔のミュージシャンが一堂に会して、昔を懐かしがったり... そんな隠れた巨人たちが演奏できる楽しみをかみしめているって感じでね。しかも、互いに名前は知っていても一緒に演奏することのなかったサンティアゴとハバナのミュージシャンが初めて顔を合わせたり... その雰囲気がソーシャル・クラブって感じだったから、それをアルバム・タイトルにしたんだ」
録音に関してはなによりもその雰囲気をとらえるために天井近くにマイクを設置。しかも、それぞれのミュージシャンを接近させて演奏させることで臨場感のある録音を残していったという。そうやって生まれたのがあの「ブエナ・ヴィスタ〜ソーシャル・クラブ」というアルバムだ。
「でも、気が気じゃなかったのは、その録音が予定通りに終わって、残り2日間でルーベン・ゴンザレスのアルバムを録音できるかどうか。なにせ、昔のジャズが好きな自分にとって彼の作品は絶対に録音したかった。そうしたら、なんとかなって... すごかったのはわずか2日間でアルバム1枚分の録音ができあがってしまったことだね。おそらく、二度と同じことは繰り返せないと思うけど、いろんな意味でとてつもない瞬間に立ち会えたように思えるんだ。」
それはヴィム・ヴェンダース監督によるドキュメンタリー映画に関してもいえる。
「イブラヒムのアルバムを録音する2週間前に撮影が決まって... 彼とカメラマンふたりで撮られたものだからね。ただ、なにがすごいかって... それは演出でもなにでもなくて、それぞれのミュージシャンが持っている本物の迫力っていうのか... それが聴いている僕ら、見ている僕らを感動させると思うんだ」
まさにその通り。あれほど淡々と事実をそのままに描いている映画もないだろう。が、一連のアルバムに込められたミュージシャンたちの想いがあの映画のなかに凝縮されているのもまた確か。まだ見ていない人には絶対にお勧めするのがあの映画であり、絶対に聴いて欲しいのがこの一連のアルバムの数々だ。
written in Tokyo in December 1999.
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