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ナタリーの声に包み込まれて感じるのは、泣き出してしまいたくなるような感覚。おそらく、エモーショナルな意味で不安定な状態にでもなっていれば、いとも簡単に涙腺をゆるめてしまうことになるだろう。思うに、これは、恋をしている時になんぞに聴くアルバムじゃない。そんなことでもしようものなら、ずっと後を引くことになる。 では、どんな人がこんなアルバムを作ったんだろう... ナタリー・マーチャントに会ってみようと思ったのは、それが理由だった。トム・ウェイツのような大ほら吹きか、あるいは、マーティン・スティーヴンソンのように嘘をつけないお人好しなのか... それとも、ひょっとして、どうしようもなく美しい自由人か... おそらくは、初めて出会っても数年来の友人であるかのように話ができる人じゃないだろうか... そんな期待を抱えてインタヴューを待っていた。 その当日がやってきたのは、あのアルバムにとっぷりとつかり込んだ頃。夕方から中野サンプラザでのライヴを控えた3月26日の昼だった。が、フォト・セッションの真っ直中に、インタヴューが予定されていたホテルの一室を訪ねると、どうも雰囲気が怪しい。 「私、こんな服なんて着たことがないし...」 と、そこにいたのは、そんな言葉を独り言のように呟いてる彼女だった。 それでも、嫌な顔をして、拒否するでもなく、とりあえずは、雑誌側の要求に応じて、試してはいる。が、彼女があの派手な服を望んでいないのは明らかだった。傍らではマネージャーが雑誌側になんとか事情を説明しようとして、その間で右往左往しているのがレコード会社の担当者。聞けば、日本側が受け取っていた彼女のサイズも大間違い。それで気分が良くなる方が不思議というものだ。いろいろなタイプの女性を描くというコンセプトを与えたらしい今回のアルバムでは、そんな女性に扮した彼女の数多くの写真が使われているのだが、本当のナタリー・マーチャントは自由に自然に生きる女性。そこから面白い服を着せようということになったのだろうが、それがなにであれ、ナタリーは服に着せられるタイプではない。 結局、そろえてもらった素材だけではなく、自分の服も使ってセッションをやることになったのだが、その間もベッドの上でヨガの格好をしたりあぐらをくんだり... こうやって彼女を見ていると、あくまで自由奔放な人なんだなぁというのがわかる。結局は、そんな自然な彼女の表情が写真にとらえられているのだろうが、この原稿を書いている時点ではまだそれを見てはいない。 正直なところ、彼女の声との出会いは遅かった。以前彼女が在籍していた10000マニアックスのアルバムはほとんど聴いていなかったし、『オフィーリア』の前作となる『タイガーリリー』もその時点では未聴だった。なぜ彼女が気になったのかと言えば、イギリスのシンガー&ソングライター、ビリー・ブラッグがアメリカのバンド、ウィルコと組んでウッディ・ガスリーの未発表曲を録音したアルバム『マーメイド・アヴェニュー』で彼女の声を聞いたのがきっかけだった。あの声が素晴らしかった... 「ビリーとは86年ぐらいからのつきあいね。初めて出会ったのはイタリア共産党が主催しているフェスティヴァルで... といっても、あれは全然政治的な集会とかじゃなくて、ただの祭りなんだけど(笑)、その頃からなの」 当時、ミュージシャンと中心とした政治圧力団体を作るなど、政治的にかなり過激な動きをしていたのがビリー・ブラッグ。あのイヴェントが政治的なものでなくても、そういった場にナタリーが姿を見せていたということだけで、彼女がただ歌を作り、ステージにたつエンターテイナーだけではないということが伺い知れる。いずれにせよ、彼女がどんな人間で、どこからあれほど胸を締め付ける音楽が生まれるのか... それを知ろうと、いろいろな話を聞き出そうとしていた。 「生まれたのはニューヨークの田舎... 両親はとっても若くて... だって、最初の子供を持ったときが19歳の時で、私が生まれたのは彼女が24の時。だから、ビートルズとか... 出たアルバムは全部買っていたみたいだし、そういったものは子供の頃から聞いていたわ」 イタリア系のカソリックで毎週教会に出かけるというごくふつうの家庭に育ったという。 「母親がクラシックが好きになって... 交響楽団とかオペラとかバレーとかに連れていってもらうようになって.. 子供心にまるで魔法の世界に入ったような気がしたものよ」 初めて交響楽を聴いたのは夏の日の野外で、それが大きな衝撃になったという。 「で、両親が離婚して、再婚したのがジャズ・ピアニスト... それがきっかけでピアノをやり始めたり... でも初めて自分でレコードを買ったのはワールド・ミュージック。あの頃つきあっていた人がずっと年上で、彼の影響なんだけど、アフリカとかブラジルとかサルサ.. そういったものだったわ」 「ピアノのレッスンを受け始めたのは8歳の頃なんだけど、数学的な考え方とか、そういうのは苦手で、結局、勝手に鍵盤で遊び始めていたの。だから、ピアノのレッスンはあきらめて、ヴォーカル・レッスンを5年ほど受けたり... あれは役にたったわ。といっても、今も自分の本当の声を探しているんだけど。ひょっとしたら、それが今のアルバムほどきれいな声じゃないかもしれないけど(笑)」 不思議なことに、ふつう、話し声と歌うときの声は明らかに違う。トム・ウェイツのようにインタヴューでさえあの声を演じてみせるアーティストもいるんだが、ナタリーは違ったタイプ。正直なところ、トーンは違っても、歌と彼女の声にそれほど違いは感じない。 「バンドに入ったのは偶然だったのよね。パーティで演奏しているバンドと一緒にやったら、仲間になってよって言われて... それから12年、ずっと一緒にやってきたことになるのよ」 それが10000マニアックスだ。ニューヨーク郊外のジェイムスタウンで81年に生まれ、アメリカではプラティナ・デスクも幾度も獲得したビッグ・バンドだ。 「おかしなものよね。いろんなことが偶然起こるのよ。私の場合は... いつだって、それをなすがままにさせているような気がするの」 同感だ。人は必要なものにどこかで偶然のように出会ってゆく。それが人であったり、音楽であったり、なんであっても、得体の知れない力に吸い寄せられるように巡り会う運命にあると思うのだ。おそらく、それをそのまま受け入れて、なるべくしてアーティストになったのがナタリーなんだろう。 「17の頃って、それからなにをしようかなんて全然わからなかった。将来どんな人になるのか... そんな質問になんて答えられるわけもなかったし.. ただ、芸術が好きで... ダンスも勉強したかったし、絵も学びたかったし、音楽だってやりたかった。でも、それが自分の人生を支えるものになるなんて思っても見なかったけど... 実際、10000マニアックスだって、最初の5〜6年はそれほどシリアスには考えてはいなかったわ。いろんなところを旅して、いろんな人に出会ってというのは素晴らしい経験だったけど、本当は、それぐらいやったら充分お金も貯められるだろうし、大学にでも入って... なんて考えてたのよ。実際、母親なんて、いつも『あなた健康保険も入っていないの?』とか『まだ結婚しないの?』って感じだったし...(笑)でも... こうなっちゃった。下手をしたら、17歳の頃に妊娠してバンドどころの騒ぎじゃなかったかも知れないし...(笑)不思議なものよね」 が、そのプロセスで彼女は音楽の魅力にとりつかれていくのだ。 「ふつうの言葉では伝えられないこととか、ものを音楽を通して伝えられたり、聞いている人たちと結びつくことができたり... 特に私の場合には『怒り』だったと思うの。歌を通してそれを解き放つことができたような気がするわ。今ではそれほどの『怒り』はないけど... いずれにせよ、10000マニアックスが始まった頃、なによりも私たちはパンク・バンドだったし... ステージで叫んだり... そんなことばかりしていたから」 といっても、もちろん、それは個人的な欲求不満ではなく、もっと社会的な不正に対する『怒り』だった。 「子供の頃から自分の住んでいる世界が荒廃していることに心を痛めていたのよ。だから、そういったことを歌にし始めていったの。例えば、私が一番最初に書いた曲のひとつがAgent Orange(ヴェトナム戦争でアメリカが使用した除草剤)のことだったのよ。私のいとこがヴェトナム帰還兵と結婚して、ひどい奇形児を生んだことがあったのね。当然、あの戦争に絡んでいることはわかっているし、彼らは政府に対してなんらかの賠償をすべきだと迫ったんだけど、結局、認められなくて... 17歳の頃には市役所に行って、『非核自治体宣言をしろ』って集会にも参加してたし、広島・長崎デーにはライヴもやったり... そんな『怒り』が歌を書かせていたのよ」 そういった経験がオルタナティヴなライフ・スタイルに結びついていったという。聞けば、16歳でカレッジに入学していたという英才だったのがナタリー。それも背景にあるんだろうが、そういった世界への扉が「自然に開かれていった」と語っているのが面白い。 「不思議よねぇ。兄弟でも同じ環境で育っているというのに、彼らは本も読もうとしないし、旅をしようともしない... そんな人たちなのね。それに、アートに関係しているのって、私だけ。なぜ私がこうなったのか、全然わからないんだけど...」 そうやっていろいろ振り返ると、起こるべきして起きたような奇妙な偶然が重なっているというのだ。 「そう言えば... 私、ハワイが好きで、いつかここに家を買おうと思っていたのよね。でも、それって、『帝国主義的』(笑)な発想でしょ。だから、去年の11月にハワイに行ったときには、『やっぱ、やめよう!』って決めたの。そうしたら、その日に不動産屋をやっている友人が『いいところがある』って紹介してくれたのよ。わずか5家族が住んでいるコミューンのような地域があって... みんな太陽熱発電とかを使って、子供たちには自分たちで教育をしているのよ。そう、まるでユートピア。そうしたら、もう止まらなくなって決めちゃったの。そう、今はそのユートピアに住んでいるのよ」 なんとこの時には、いろんな偶然が重なったという。買おうとした家の半分しか太陽発電が使えなくて、なんとかしようと思っていたら、そのエキスパートが隣にいたとか... 毎日毎日そんなことが続いたというのだ。 「なかでもびっくりしたのは、マウイのホテルでのこと。バンドのドラマーと一緒だったんだけど、エレベーターの扉が開いたとき、なんと偶然、彼の従兄弟と5年ぶりに偶然会っちゃったのよね。信じられる? 二人が同じ時期に同じホテルに泊まっていたわけ! だからってわけじゃないけど、なにかが起こるべきして起こるってのは、なんか理解できるのよ。特に、私、卯年だから、今年は特にそんな予感がするのよ。(笑)」 そう言えば、インタヴューが終わって雑談していた時のこと、アイルランドのバンド、チーフタンズのアルバムに彼女が参加したいきさつをこんな風に話してくれている。 「例のアルバムで歌ったのもそうだったの。たまたまロンドンでライヴをしてダブリンに行ったのよ。で、オフがあったから、ちょっと南の街に遊びに行こうとして、途中でパブに入ったのね。で、ドアを開けて入ろうとしたら、なんとチーフタンズのパディ・マローニが出てくるわけ。そうしたら、彼が言うのよ。『ここ半年ずっと探していたんだよ、あんたを』(笑)信じられる、これ? なんとそのパブが彼の家のすぐそばで... 当然こっちはそんなこと知らなかったのに... 結局、あれがきっかけであのプロジェクトに参加できたのよ」 と、まるで嘘のような信じがたい話がごろごろと出てくるのだ。それが偶然なのか、定められた運命なのか、よくわからないのだが、どこかで目に見えないエネルギーが彼女のなかからわき出ているのかもしれない。 「そうよね、ひょっとしたら、私は大きなエネルギーの流れのなかのなにかで、ある種の人たちとはなにか引き合うものがあるのかもしれないと思うのよ。そして、そこにはなにかの理由があって... もちろん、逆に一緒に部屋にいるだけでいやになる人もいるけど、そんなものだと思うわ」 おそらく、彼女の声に引かれるのも、聞くべき人たちとの間に目に見えないなにかがあるからだろう。その曖昧模糊としたなにかが、おそらく、歌を媒介として我々を引き合わせてくれたのだと思うのだ。 が、それにしても、なぜかナタリーの歌は「泣ける」のだ。そんな意味で言えば、彼女は実に罪作りだと攻めると、こんな言葉が出てきたものだ。 「いいことよ、泣くってのは。(笑)そんな気持ちになってくれるのって、大好きよ。だって、私の音楽って純粋なエンターテインメントじゃないと思っているし... さぁて、でも、それがなにかと問われれば... 音楽ってしか答えようがないんだけど。(笑)そう、涙を流させるのは、音楽が最良の形になったとき... 心の奥深くでなにかを動かすときだと思うの。なにをしているのかわからなくても、なにかを突き動かすってのかしら。嬉しかったのは、私の兄ね。マッチョな、いわゆるふつうの労働者。泣いたところなんて見たことがないのに、録音を終わったばかりの『Kind & Generous』をトラックのカーステレオで流したら... 泣き出しちゃって... 車を止めて泣きながら言うのよ。『なんて綺麗な曲なんだ』って。(笑)なんか、それがおかしくて二人で笑い出しちゃったってこともあったわ」 不思議なのは、それほど言葉が理解できなくても、同じような感覚に陥ってしまうことだろう。それがなぜなのかはわからない。が、おそらく、ナタリーがアルバムに封じ込めているのはただのエンターテインメントどころか、ただの音楽でもないからだろう。思うに、そんな理由を突き詰めるより重要なのは、感動に対してありのままに身をゆだねることだと思うのだ。 written in Tokyo in April 1999. |