button第25章 「もうひとつの世界」へのアプローチ

---グラストンバリーのヒッピー・フェスティヴァル---


ロンドン・ラジカル・ウォーク  高速道路M4号線をロンドンから時速百マイルで1時間ほど西にブッ飛ばして、国道A46号線を南下する。まず最初に通り過ぎるのはジョ−ジ王朝時代の建築物が美しい観光都市バ−ス(Bath)だ。それから国道36号線に入り、フロ−ム(Frome) という街で一休み。ス−パ−で3日間分の食料とビ−ル、時にはゴムナガなんぞを買い込み、少しばかり西に行ったところにあるパブでメシを食らうのだ。そして、約10万人が世話になる不潔な簡易トイレを少しでも避けるためにここのトイレで糞をたれて目的地に向う。これがここ数年間、6月の第3木曜か金曜日に必ず取る年間スケジュ−ルのひとつだ。目指すのはサマ−セット(Somerset)州グラストンバリィ(Glastonbury) 市郊外にある村、ピルトン(Pilton)。 目的はここで開催されるグラストンバリィCNDフェスティヴァルの取材だ。

 緑一色の牧場がなだらかに波を打つ田舎道を走り抜け、会場に近づくとまず目に入ってくるのはドラッグなどの持ち込みチェックや交通整理に躍起になっている警察官たち。そして、バックパックにスリ−ピングバッグやテントをくくりつけた無数の若者たちがそこに続く。じゅずつなぎになったポンコツ車やヴァンのそばを彼らがまるで民族の大移動でもしているかのように通り過ぎてゆくのだ。そんな連中が歩いてゆく先からほのかに耳をかすめるのは巨大なスピ−カ−から送り出されてくるサウンドだ。そんな時思いだすのがまだ10代半ばに見た映画、"ウッドストック"。ジョニ・ミッチェルが作りCSN&Yがヒットさせたあのテ−マとも呼べるこの歌が頭をかすめるのだ。
ロンドン・ラジカル・ウォーク "イェスダ−の農場へ行くんだ。僕らは大地に帰らなきゃいけない。魂を解放するために。そう、僕らは輝くスタ−タ−。自分自身をこの土地で取りもどすんだ。

 毎年のことだというのに、いつもそんな気分で胸がワクワクしまうのがこの瞬間だ。それを十二分にわかっているものだから、その演出のためにいつも用意してしまうのが特別なミュ−ジック・テ−プの数々。ジミィ・ヘンドリックスやサンタナ・・・ 60年代に活躍したそんなア−ティストの作品をカ−ステレオのスピ−カ−からギンギンの音量で流しながら会場に足を踏み入れるのだ。

 といっても、もちろん、これはノスタルジィではない。ただ、それから3日間に渡って繰り広げられるピ−ス・フェスティヴァルに感じるのが、あの60年代におそらく全ての新しい世代が求めていたユ−トピア。完全ではなかったにせよ世界を変革したロックを今も信じる人たちがその夢を現実にしようとしているその現場がここにあるとでも言えばいいのだろうか。ともかく、それがここで開かれるピ−ス・フェスティヴァルの極私的な幕開けだ。

 思えば、初めてここを訪ねた時だって、キッカケはそんな時代を今も引きずって生きている友人たちの誘いだった。事実、一時は子供3人とバスで生活していたこともあるのがこの友人夫婦。さらに、彼らの家はまるでコミュ−ンのようで、そこには日本からやって来た僕自身を筆頭にカナダ、オ−ストリアやドイツ、さらにはアイランドからやって来た仲間が共同生活していたこともある。そんな彼らがある時こう説明してくれたのだ。

「年に1回、サマ−セットのグラストンバリィってとこで祭り(Fair)があるんだよね。でも、その街じゃなくて、その郊外にある農場が会場なんだけど、そこにテント張ったりして生活すんだ。そう、自然の中に3日間。ステ−ジじゃ音楽やってるし、芝居のテントなんてのもあって・・・ それにフィ−ルドじゃジャグラ−なんかがいて・・・ マ−ケットも面白いな。オルタナティヴ運動やってる連中が全国からやってきて、自然食のレストランや八百屋、それに古着なんて店も出るんだ。ここに行けば本当のイギリスを見ることができるから。」

ロンドン・ラジカル・ウォーク  そして、彼らのオンボロ車に乗って、やはり近所の仲間を集めて出ていったのが82年のフェスティヴァルだった。それは、ちょうどこのフェスが単なるヒッピィの祭りがら脱却し始めた頃。CNDに収益を寄付することになって再スタ−トして2回目のことだった。

 会場の中心となるのは時にピース・マ−ク、時には太陽をイラスト化したマ−クが頂上に飾りつけられたピラミッド型ステ−ジ。そのメイン・ステ−ジではアメリカからこのフェスの噂を聞きつけで無料で出演したいと申し出てきたジャクソン・ブラウンやイギリスじゃ超大物のヴァン・モリソンにアスワッドなんてグル−プが素晴らしい演奏を見せてくれる。全国から約3万の人々が集まってきたのがこの年だった。

 が、この時最も感動したのはそんな名のあるミュ−ジシャンたちの演奏ではなく、この場を包み込んでいたある種の雰囲気だったように思えるのだ。ちょうどCNDを中心とした反核運動が急速に成長していたのがこの当時。しかも、それを支えていたのは政党や政治団体ではなく60年代に端を発するフラワ−・ム−ヴメントだ。そこに加わったのがパンクを経て政治に目醒めた子供たち。彼らがここで新しく静かな変革を醗酵させていたのが手に取るようにわかったからだ。
Jackson Browne  それが形になったのはジャクソンが演奏した夜だった。霧がたち込めた会場でまるでレ−ザ−光線のように輝くト−チの光を誰かがピラミッドの頂上に向けた時だ。同じような光が次々とその頂上を目指し、真っ暗な夜空にポッカリと輝くように浮かび上がったのがピース・マ−ク。そして、それに続いたのがここに集まった3万人の人々から沸き起こった拍手と歓声だ。その時、彼らの顔までもが輝いて見えたのをよ〜く覚えている。

 そして、その翌日、セッテングをしているスタッフを後にステ−ジに立ったのは長髪の男性だ。このフェスの主要メンバ−のひとりでもある彼はこう語りかけてくるのだ。

「ほんの1分でもいい、完全な沈黙をここに生み出そう。簡単なことかもしれないけど、僕らがトライすればなにかができるんだってことを証明するために。」

 すると、完全に静まり返ったのが2百エ−カ−を越える広さを持つこの農場だ。その沈黙を破っていたのはステ−ジ前でクダを巻いていた青年ひとり。「そんなことで世界が変わるもんか!」 と、そう叫ぶ彼の声を圧倒したのがこうして生まれた沈黙だった。この時、僕は彼らが持つ可能性をハッキリと目撃できたように思える。

ロンドン・ラジカル・ウォーク  おそらく、そんな理想主義をベ−スに置いていたのが60年代に生まれたフラワ−・ム−ヴメントじゃなかったんだろうか。でも、ここに来ると、その理想主義が実は最も現実的な変革に結びついているというのが手に取るようにわかるのだ。広大な敷地を与えられているマ−ケットに行っても、レストランの多くは自然食指向。ハンバ−ガ−に代ってヴェジ・バ−ガ−(Vegi Burger)、すなわち野菜やナッツを使ったバ−ガ−まで存在する。そして、工場の機械ではなく、人々の手によって作られたサイダ−(Cider= リンゴ酒)が売られ、有機農法や自然農法で作られた野菜を売る店も数多く存在するのだ。

 さらに、あの時代を感じさせるのはそのシンボル・カラ−とも言える虹色を使ったセ−タ−やスカ−フにキャンドル。それに香やアクセサリィなんぞが続くのだ。もちろん、その中にはピース・マ−クを素材にしたものも多い。また、グリ−ン・フィ−ルド(Green Field) と呼ばれる一角では風車を使って電力が作られ、エコロジィ運動にたずさわる人たちが理想郷を作るための現実的な手段を見せてくれる。当然、ここには核エネルギィの危険を展示するテントがあり、同時に不毛な動物実験によって多くの動物たちが虐殺されている事実もレポ−トされている。それを見ていると、理想郷が夢物語ではないのをつくづくと実感できるのだ。そして、どこにでもいるような普通の人々が日常の生活の中でそれを具体化しているのも伝わってくる。
ロンドン・ラジカル・ウォーク  この会場の持ち主でフェスの主催者でもあるマイケル・イ−ヴィスに初めて会ったのはその翌年だった。CNDを中心とした若い世代による新しい反核運動の実体を取材するために彼にインタヴュ−を申し込んだのがこの時だった。多くのミュ−ジシャンを巻き込んで繰り広げられるポップなデモ。これがこのフェスの印象でもあったのだが、彼はそれを軽〜く否定してこう言うのだ。

「デモなんてとんでもないよ。だって、誰も反核だぁ〜ってシュプレヒコ−ルを上げてるわけでもないだろ? もちろん、こんな自然な形で反核をアピ−ルしたいって気持は充分あるよ。でも、重要なのは完全な自然と平和のなかでその意味を若い世代に伝えてゆくことだと思うんだ。」

 そのせいか、14歳以下は入場無料で、子供たちのために遊園地まで作られているのがこのフェスだ。そして、彼の言葉の中に見え隠れするのが60年代の意識革命。このフェスを70年に初めた時の動機はディランやドノヴェンが歌っていたことにあったと続けるのだ。

ロンドン・ラジカル・ウォーク 「そう、彼らが歌っていたことを現実にしたかったんだ。オルタナティヴな考え方を持った人たちが年に一度でいいから集まってこられるような、そんな楽園を作りたかったってのかな。そうだね、これは楽園へのロマンティックなアプロ−チだって思うんだ。」

 Tレックスが出演した最初の年に集まったのは約2千人。そして、フリィ・フェスティヴァルとなった翌年にはまだ長髪だったデヴィッド・ボウイやトラフィックが参加し、1万2千人が集まってきたという。が、その赤字で一時中断。再開されたのは79年だった。これは国連の国際子供年への基金作りが目的で、この時演奏したのがピ−タ−・ガブリエルたち。そして、1年のブランクを置いて再出発したのがCNDへの資金作りを目標に置いた81年だった。

「ちょうどNATOがヨ−ロッパへの中距離核ミサイル配備を決定した79年に一番下の娘が生まれたんだ。その時、これを思い立ったってのかな。もちろん、以前から核には反対してたさ。でも、どうしようもない恐怖を実感として感じたのは、やはりこの娘のことを考えた時だったね。なんとかしなきゃって・・・ CNDへの寄付金を作ることでフェスを再生させようと思ったんだ。」

 その最初の年、81年にはタジ・マハ−ルやジンジャ−・ベイカ−などをゲストに2万人弱を集め、なんと1万4千ポンドをCNDへ寄付。また、その収益にしても、マイケルが受け取るのはその3日間、彼が飼育している牛からミルクを取れないことによって派生する金だけで、彼自身は一銭の利益も上げようとしていないのだ。実は税金や経費の計算違いで損を出したというオマケが付いたのがその年。そして、82年、ジャクソン・ブラウンの無料出演でこのフェスがCNDへの強力な支援運動であるという評価が急速に高まり、ヒッピィ・フェスのイメ−ジから逃れ始めていった。
ロンドン・ラジカル・ウォーク  また、このフェスティヴァルへの出演料は基本的に通常のレ−トの半額。だのに、それまでを寄付するミュ−ジシャンが増えてきたのもこの頃だ。翌年、キング・サニ−・アデやUB40などが出演した時にはエニッドと呼ばれるグル−プが声明を発表。「この危険な時代に生きる我々ミュ−ジシャンは出演料をCNDに寄付すべきだ。」と、そんな手紙を全出演者に送りつけている。そして、87年に集まったのは約10万の人々。約15万ポンドの利益を上げ、これがCNDへの最大の寄付団体へと成長していった。

 が、その過程でかなりヘヴィな圧力を受けてきたのがこのフェスだ。大規模なライヴを開催するには州の許可が必要で、保守党の議員から何度も出されたのが開催中止勧告。そのたびにマイケルが裁判闘争を繰り返し、こんな声明を新聞に発表したのが87年だった。

「総選挙に誰を投票してもかまわない。が、このフェスの開催を阻もうとしている保守党にだけは入れて欲しくない。」

 その結果落選したのがこの開催に反対していたその保守党議員候補。おそらく、これ以降このCNDフェスが小規模な政治圧力を受けることはないだろう。が、もちろん、政府レベルでの圧力がなくなるとは思えないし、これで問題がなくなったわけではない。そんな物理的な問題の他にもマイケルがこのフェスに託している夢への精神的な問題がある。86年のフェスが終った時、彼は僕にこんな台詞を言ったもんだ。

「ねぇ、コ−イチ、これを続けてゆく価値は本当にあるのかな。人はたくさん集まってくるようになったけど、求めていたのはこんなものじゃなかったように思うんだ。」

 なにせ、ピラミッド型メイン・ステ−ジに出演するア−ティストだけで約20グル−プ。それもシンプリィ・レッドからレヴェル42といったイギリスのメジャ−・グル−プにアメリカのメジャ−・ア−ティストが加わり、さらにレゲエやファンク、アフリカといった黒人系ミュ−ジシャンも数多く演奏する。しかも、約2万人を収容可能な第2ステ−ジがあり、その他にもアコ−スティック・テントやシアタ−、映画用テントも特設されるているのだ。87年にはそこに第3世界のア−ティストを紹介するウォ−マッド・ステ−ジが加わり、この3日間に出演する全ア−ティストの数は軽く百を越える。

 また、その会場だって桁違いに大きくなっているのだ。82年は2百エカ−に過ぎなかったのが、87年にはその倍以上の約5百エ−カ−に拡大。東京にある後楽園球場の38個分がスッポリを入る規模にまでなっている。当然、その規模に比例して人は増え、派生してくるのがトラブルだ。それが86年の携帯用ガスボンベの爆発事故やフェンスを乗り越えてタダで入ってきた約1万人のヒッピィだった。
ロンドン・ラジカル・ウォーク  さらに、音楽ばかりが強調され、メディアから消し去られているのがそのオルタナティヴな要素。そして、それを知らない人々が集まってきて、この夢を潰してゆくのだ。また、警官が基本的には立ち入れない私有地でのイヴェントだということもあって大量に持ち込まれるのがドラッグ。どこでも大声を上げてそれを売るディ−ラ−が我物顔で歩いている。もちろん、さすがにヘロインなんて売ってようものなら放り出されるけど、マスコミはそれを材料にこのフェスを非難し続けているのだ。おそらく、マイケルはそれを苦痛に感じていたのだろう。

 が、あれから1年弱、結局彼が出したのがゴ−サイン。それは企業のスポンサ−もなく開催される世界に唯一残されたオルタナティヴなピ−ス・フェスがこれだったからだ。実際、ここに来てみればわかるのだ。スタ−が集まるピラミッドなんて全く関係なしにこの3日間を過ごす人の多いこと。それに、なにもないフィ−ルドで突然ギタ−やバンジョ−を持って演奏を始める無名のストリ−ト・ミュ−ジシャンやジャグラ−だって多い。しかも、それを楽しみにここへ毎年やって来る人だって限りないのだ。そして、そんな人に話しをきくといつもこんな答が返ってくる。

「別に誰に金をもらってるわけじゃないし、雇われてるわけでもないさ。ただ、こうやってみんなの前で演奏したり、自然の中で子供たちと遊ぶのが好きなんだ。」

 おそらく、こんな人々やグリ−ンフィ−ルド、そしてマ−ケットこそがこのフェスの意味なのだ。実際、毎年毎年ピラミッドのそばにへばり付いてスタ−の写真を取りながらいつも頭を悩ませているのが僕自身。いつか、そんな人たちの姿をもう一度取材し、その素晴らしさを伝えたいと思うのだ。が、それよりも大きな望みはこのフェスからCNDという文字が消える時代がやって来ること。そうなったら、その時にはカメラもメモ帳も投げ出して取材のことなんぞパ〜ッと忘れて遊び狂うのだ。そして、頭ん中から政治や核なんて退屈な問題を取っ払う。きっと、それこそがマイケルや僕自身が求めているパラダイスのように思えるのだ。
chapters

buttonこの本の復刻にあたって...

button第1章 さあ、ロンドンに着いた : - 空港から市内へ -
button第2章 「A to Z」を持って街にでる :- 地下鉄、バスからタクシーまで -
button第3章 高いホテルは要らない : - 泊まり方と住み方 -
button第4章 ソーホーはロンドンの縮図 : - 歓楽街、チャイナタウンからナイトクラブまで -
button第5章 イギリス料理って何だろう : - フィッシュ&チップスからケバブ屋まで -
button第6章 日本食が恋しくなったら : - 材料のそろえ方と自然食ムーヴメントについて -
button第7章 ライヴは"生きた音楽"だ : - 開演前から思いきり楽しむ -
button第8章 真夜中からが本当のロンドン : - ナイトクラブは流行発信地 -
button第9章 ラジオが刺激的 : - BBCから海賊放送局まで -
button第10章 情報誌はジャーナリズムだ1 : - タイムアウトとシティリミッツ -
button第11章 情報誌はジャーナリズムだ2 : - 世界を反映する音楽紙 -
button第12章 オープン・マーケットで掘り出し物探し :- カムデンマーケットはストリート文化の宝庫 -
button第13章 流行はストリートから : - 究極のロンドン・ファッションとは? -
button第14章 とにかく興奮! レコード・ショップ
button第15章 映画館は大騒ぎ : - レイトナイト・ショーで盛り上がろう -
button第16章 テレビも忘れずチェック : - 音楽、コメディ、報道番組の楽しみ方 -
button第17章 誰でも英語は話せる : - 本場の英語を学ぶコツ -
button第18章 パブこそが全て : - 飲んべぇたちの奇妙な生態 -
button第19章 ビ-ル作りの密かな愉しみ : - ビターからホーム・ブリューイングまで -
button第20章 パブがパンク・ムーヴメントを育てた : - トラッド・ジャズなど、パブは音楽のゆりかご -
button第21章 ストリートがステージだ! : - 街頭で演奏するバスカーたち -
button第22章 街を揺さぶる移民のカーニヴァル : - ノッティングヒル・カーニヴァルの光と陰 -
button第23章 ブリクストンの暑い夏 : - 観光客の知らないロンドン -
button第24章 反抗する音楽 : - CNDで知ったミュージシャンの政治意識 -
button「もうひとつの世界」へのアプローチ : - グラストンバリーのヒッピー・フェスティヴァル -
button解説(月刊宝島編集長、関川誠)
buttonあとがき



無断転載を禁じます。The copyright of the photos belongs to Koichi "hanasan" Hanafusa (The Voice Of Silence). They may not be reproduced in any form whatsoever.
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