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既成のロックに挑戦状を叩きつけるようにして生まれたパンクが、絶大な影響を音楽シーンに与えていた70年代後半、英国は北イングランドのマンチェスターで生まれた奇妙な動きに目を向ける人はほとんどいなかった。というのも、コトの起こりは『ベルリン』と呼ばれるちっぽけなクラブにすぎなかったからだ。しかも、主役はミュージシャンではなく、当時は決して音楽メディアに登場することなどなかったDJやダンサーたち。ところが、その動きが10年後の音楽シーンに大変革をもたらすことになる。 当時、一世を風靡していたのはニューヨークはブロンクス生まれのブレイク・ダンス。ヒップホップのリズムにのって、スピンやターンを繰り返す新しいダンス・スタイルだった。そのスタイルは、当然、英国にも伝播している。が、マンチェスターの黒人たちはそれにあきたらずオリジナルなダンス・スタイルを模索するようになる。そのプロセスで登場したのがジャズだった。 といっても、当初、彼らがジャズと呼んでいたのは、いわゆるフュージョン。それもブリティッシュ・ソウルの延長線で生まれたものだ。当時、英国の黒人に絶大な人気を誇っていたのは、リンクスに代表されるファンキーなダンス・ミュージックで、その周辺のミュージシャンがフュージョンを吸収して、生みだしたのがブリティッシュ・ジャズ・ファンクだった。日本でも比較的よく知られている代表的なバンドはレベル42やシャカタク。また、90年代になってふたたび脚光を浴びるようになったライト・オヴ・ザ・ワールドやインコグニート、フリーズもここに含まれる。
そんな彼らのために、よりテンションの高いジャズのディスクを探しだすようになるのが今では伝説となったDJ、コリン・カーティスだ。当初、彼が流していたのは前述のようなジャズ・ファンクやチャック・マンジョーネといったフュージョン。ちなみに、当時、英国のダンスフロアでタイガー大越や福村博といった日本人ミュージシャンがヒットを飛ばしていたのも、そんな時代の流れを反映していたからにほかならない。 が、よりファンキーでグルーヴィなサウンドを求めるDJやダンサーがたどり着いたのは、同時代の新しい音楽ではなく、50年代後半から60年代前半のジャズだった。例えば、ジャズ・ディフェクターズが熱狂していたのはチャーリー・パーカーとマチートの〈マンボ〉やアート・ブレイキーの〈クバーノ・チャント〉。いわゆるジャズ・ファンからは敬遠されていたラテンやアフロ・キューバンが彼らの間で続々と再発見されていったのだ。
![]() ![]() ![]() そしてその動きのなかで、がぜん注目を浴び始めたのがブルーノート・レーベルだった。アフロ・キューバン系ではケニィ・ドーハムの〈アフロディジア〉やホレス・パーランの〈コンガレグレ〉が驚異的な人気をみせ、それに続くのはファンキーにボサノヴァを料理したハンク・モブレーの〈リカード・ボサノヴァ〉。その3曲は後に『ダンス・ジャズ』と呼ばれるこのムーヴメントで、もっとも頻繁に登場するダンス・トラックとなっていく。その他にも人気の高かったのは、リー・モーガンの〈サイドワインダー〉やルー・ドナルドソンの〈アリゲイター・ブーガルー〉。なによりも好まれていたのはラテン系や強烈なビートを持つソウルフルなジャズだった。 また、それはサウンドにとどまらず、アルバム・ジャケットに登場するジャズメンのファッションにまで波及していった。ジャージやスェット・シャツで踊っていたニューヨークの子供たちに対して、マンチェスターの彼らが選んだのはヒップでクールなスーツ。彼らはフリー・マーケットや救世軍のバザーで、50年代や60年代のオリジナルをタダ同然で手に入れていたのだ。そんなスーツを着込んだ彼らの姿は、まるで鳩のジャケット、『ザ・マグニセント・サド・ジョーンズ』(1527)から抜けだしたサド・ジョーンズであり、『グッド・ディール』(4020)のスリー・サウンズだった。この頃から、音楽のみならず、ファッションをきっかけとしてブルーノートの再発見や再評価が始まってゆく。
そんな動きを加速させたのが、いわゆるトレンド・マガジン「フェイス」の記事だった。この雑誌にフィーチュアされれば流行が生まれる、とまで言われた影響力のおかげで、ジャズ・クラブが全国に生まれ、ジャズという言葉自体がトレンドの鍵となる。そんなクラブを背景に登場してきたのがジャズのエッジを持ったポップスだ。シャーデーやワーキング・ウィークにエヴリシング・バット・ザ・ガールなどが83年から84年に相次いでデビューしたのは偶然ではないのだ。 では、なぜ、ジャズがこれほどまでに英国で新鮮な響きを持ったのか? その理由はいたって簡単だ。英国の音楽史をひもとくと、ポッカリと抜け落ちているのがジャズの全盛期。今でいう貿易不均衡が原因で、アメリカ人ミュージシャンの英国公演が規制されていた時期があったせいだ。50年代前半まで英国では、ディキシーランドからスイング・ジャズを中心に、空前のジャズ・ブームに沸いていた。それはデューク・エリントンがバッキンガム宮殿で演奏したという記録からも察することができる。ところが、アメリカのミュージシャンの活躍で職場を失ったのが地元のミュージシャン。それが英国のミュージシャンズ・ユニオンの奇妙な決定に結びつくのだ。ようするに、双方のミュージシャンが均等に演奏の機会を与えられるまで、アメリカ人は英国で演奏できないというのだ。といっても、その頃、英国がアメリカに輸出できる音楽は皆無に等しかった。当時、多くのアメリカ人ジャズ・アーティストがフランスを中心としたヨーロッパに活動拠点を動かしたのは、それが原因だ。結局、英国がアメリカのミュージシャンを受け入れられるようになるには、ビートルズの成功を待たなければならなかった。ところが、その頃、すでにアメリカはフリー・ジャズに向かっていたのだ。 長い間、英国でジャズに与えられていたイメージは、ディキシーランドやビッグ・バンドのそれであり、ジャズは旧世代の古臭い音楽だという受け取り方が一般的なものとなっていた。不幸にも英国は、急激な新陳代謝を繰り返して絶頂期を迎えたジャズを体験できなかったばかりか、ジャズをきわめてマイナーな存在にしてしまったのだ。ロックが時代の寵児となった時、ジャズは限られたファンのサロン・ミュージック化を余儀なくされ、さらに、硬直したジャズ・ジャーナリズムがそれに拍車をかけていった。 ところがそのおかげで50年代後半から60年代前半のジャズが、80年代の子供たちに新鮮な響きをもつ音楽として登場することになるのだ。ニュー・ウェーヴやテクノという無機的な音楽に支配された時代に、ポツンと浮上することになった有機的なリズムや演奏が、どれほどの魅力を彼らに与えることになったかは容易に想像できる。ダンスフロアでジャズを再発見した彼らに陳腐な理屈は不要だった。要はグルーヴであり、クールさであり、ヒップな気分。それがジャズに新しい解釈を加えていくのだ。
![]() ![]() さらに、その魅力は音楽に留まることはなかった。ディジー・ガレスピーのベレー帽からバブス・ゴンザレスのボウ・タイにキャブ・キャロウェイのズート・スーツ、ヴァーヴ・レーベルのジャケットに登場するイラストレーションやパシフィック・ジャズ・レーベルのチェット・ベイカーやジェリー・マリガンの写真など、ある種のノスタルジーにも似たジャズの世界のどれもこれもがクールでヒップなものの象徴として甦ってきたわけだ。 そして、そんな魅力を象徴するようなブルーノートが、ぼんやりと顔をだし始める。例えば、多くの若手デザイナーが模倣を繰り返したのはレーベルのヴィジュアルを決定したハウス・デザイナー、リード・マイルスのレコード・ジャケット。エルビス・コステロの『オールモースト・ブルー』(Columbia)はケニー・バレルの『ミッドナイト・ブルー』(4123)が下敷きであり、ジョー・ジャクソンの『ボディ&ソウル』(A&M)はほぼ完璧にソニー・ロリンズの『ソニー・ロリンズ Vol.2』(1558)をリメイクしている。ジャズっぽいことがそのままヒップでクールだと言いたかったのだろう。これが第一次ジャズ・ブームに発展していくのだ。
このジャズ・ブームを受けて、若手ジャズ・ミュージシャンがシーンに浮上してきたのもこの頃だった。まずは19歳でデビューすることになったコートニー・パイン。しかも彼は、デビュー・アルバムを全英チャートに放り込むという英国ジャズ史上初めての快挙をなしとげている。また、彼は黒人ミュージシャンのみのオーケストラ、ジャズ・ウォリアーズを結成。後にUKジャズの核となるミュージシャンがすべて集まったこのオーケストラは、ブームとしてのジャズが確実な成長をとげる基盤を作っていった。 この頃から続々と登場してきたのがジャズのコンピレイション・アルバムだ。選曲を担当したのは、もちろん、クラブのDJ。ポール・マーフィはポリグラム系の作品を集めた『ジャズ・クラブ』を、そして、バズ・フェ・ジャズはヴィー・ジェイやベツレヘム音源を使った『ジャズ・ダンス』をシリーズ化。さらに、この頃から頭角をあらわしてきたDJ、ジャイルス・ピーターソンは『ジャズ・ジューズ』に次いで、ブルーノートの音源を使った『ブルー・シリーズ』に着手している。これをきっかけにブルーノートが新世代のファンに決定的な評価を受けるようになるのだ。 第一作はラテンからアフロ・キューバンのトラックを集めた『ブルー・ボッサ』(英BN)。ロンドンのダンス・ジャズを語る時に欠かすことのできないケニー・ドーハムの〈アフロデジア〉やホレス・パーランの〈コンガレグレ〉を筆頭に、ホレス・シルヴァーの〈ザ・ケイプ・ヴァーディーン・ブルーズ〉やグラント・グリーンの〈マンボ・イン〉などが収められたこのアルバムは、現在も好調なセールスを続けている傑作コンピレイションだ。次いで発表されたのはR&Bに通じるファンキーな演奏を集めた『ブルー・バップ』(英BN)に、ゴスペルやソウルを感じさせる『バプティスト・ビート』(英BN)。いずれも、DJ必携のアルバムだ。
ダンス・ジャズが日本に伝わった頃、それを好奇の目でしか捕らえていなかったのが日本のジャズ・ジャーナリズムだった。それだけならまだしも、辛辣な批判や皮肉で彼らを攻撃する評論家もいた。なぜならロンドンが狂喜していたのは、空虚な芸術論に固執する純粋主義者が《大衆に迎合した低俗なジャズ》と非難してきたジャズだったからだ。彼らは、オルガンを中心に展開するR&Bやソウル指向の迫るアーシーでスティーミィなサウンドや、パーカッションを多用したラテン・ジャズを、もっとも忌み嫌っていたのだ。が、ジャズはけっして宮殿や上流階級で生まれたものではない。それはコットン畑で誕生し、スラムやバーといったストリートで成長した音楽である。だからこそジャズは、ブルースからゴスペル、あるいはアフリカのリズムをルーツに持つ、ヴィヴィッドでヴァイタルな人間表現としての様式の創造を可能にしたのだ。 それを完璧な形でパッケージしていたのがブルーノートだった。レーベルを設立したアルフレッド・ライオンが最も愛したのは、ブラック・ミュージックのエッセンスを結晶にしたジャズ。彼のアドヴァイザー的な存在だったアーティスト、アイク・ケベックやバブス・ゴンザレスの演奏に始まって、彼らがレーベルに紹介した未来の巨人たちが、共通して抱えていたのがそれだった。ライオンは、40年から50年代当時、あからさまに人種差別的な発想で『低俗な音楽』と見なされていたジャズに、充分な敬意と愛情を持ってアルバムを作っていったのだ。しかも彼は、キューバン・ミュージックからアフリカのリズムまでをも融合していった新しいジャズを当然のものとして受け入れ、ヴェリィ・ベストなミュージシャンのヴェリィ・ベストな演奏を録音している。その姿勢と完全に重なるのが、ダンス・ジャズを生みだした英国のDJやミュージシャンなのだ。 その正当性をいち早く認めることになったのは、今は亡きジャズ界の巨人、そして、ブルーノートの看板アーティスト、アート・ブレイキーだった。86年3月、ロンドンのショウ・シアターに出演した彼とジャズ・メッセンジャーズが共演したのは、IDJやジャズ・ディフェクターズといったダンサーたちだった。また、ラップの元祖とも言われるラスト・ポウエッツのジャラールも同じステージに立っていた。〈チュニジアの夜〉のドラム・ソロにダンスのインプロヴィゼイションが絡み、そこにラップが加えられる……。あの光景は来たるべき90年代ジャズを見事に予感させていたように思えるのだ。 クラブで生まれたダンス・ジャズが、ディスクをまわす作業から新しい段階に入ったのはアシッド・ジャズという言葉が生まれた88年頃だった。それを仕掛けたのは新しい言葉作りの名人、ジャイルス・ピーターソンとワーキング・ウィークのギター奏者、サイモン・ブース。彼らの目的は、ダンス・ジャズの影響で生まれた新しいミュージシャンの作品を集めたショウケース的なアルバムを作ることにあった。名前の由来は、ちょうどその頃、クラブ・シーンで驚異的な勢力を誇っていたアシッド・ハウス。実は、レイヴの原型とも言われるこれにあやかって、メディア受けを狙った造語がアシッド・ジャズだったのだ。 彼らの頭にブルーノート的な発想があったことは確かだ。50〜60年代のジャズ・ミュージシャンがアフリカやキューバ、ブラジルの音楽をジャズに吸収したように、ダンス・ジャズで育った若手ミュージシャンがここでジャズを基盤にヒップホップやレゲエなどを融合していったのだ。しかも、充分ライヴを積み重ねたミュージシャンがライヴ的なスタイルで録音し、大手レコード会社がシングル盤を制作する費用でアルバムを仕上げる。そこには音楽に対するジャイルスとサイモンのなみなみならぬ愛情が感じられる。おそらく、ライオンがブルーノートを始めた頃もそうではなかったろうか。新しい才能を認めず、充分な配慮もない録音でレコードを生産する大手レコード会社に対し、いわば反旗を翻したのが世代を越えたジャズ・フリークたち。時代が変わっても、彼らが同じ流れの上に立っているのがよくわかる。 そんなブルーノート的なジャイルスの姿勢がより明確になるのが、アシッド・ジャズを発展させて設立したレーベル、トーキン・ラウドだ。ジャズ・レーベルではないが、ここに集まったミュージシャンはいずれもダンス・ジャズを中心としたクラブ出身のアーティスト。そのトーキン・ラウドのチーフ・デザイナーがリード・マイルスのデザインをこよなく愛するスィフティだ。彼の手によるヤング・ディサイプルズのシングル〈アパレントリー・ナッシング〉のモチーフは、ジョー・ヘンダーソンの『モード・フォー・ジョー』(4227)であり、アルバム・ジャケットはハービー・ハンコックの『インヴェンションズ・アンド・ディメンションズ』(4147)がネタとなっている。ちょうどトーキン・ラウドのミュージシャンが、過去の偉大な音楽的遺産をベースに現在の要素を融合して新しい音楽を創造しているように、スィフティが目指しているのはそのヴィジュアル面での展開だ。だからなのだろう、彼はブルーノートの影響を隠すどころか、それを前面に押しだして活動を続けているのだ。
そのアルバムに、グラント・グリーンの〈スーキー・スーキー〉を無断借用して作った曲がある。そのためにEMIから呼びだしをくらったのがDJのジェフ・ウィルキンソンだった。当時のユニットはロンドンの郵便コードを意味するNW1で、曲は〈ザ・バンド・プレイド・ザ・ブーギィ〉。ウィルキンソンはコッテリと油を絞られて、ヘタをすると損害賠償を払わされるのではないかと不安だったらしいのだが、この曲を気に入ったUKブルーノートから続編の制作依頼を受ける。そうやって生まれたのがハービー・ハンコックの〈カンタロープ・アイランド〉をサンプリングしたナンバー〈カンタループ〉を大ヒットさせたUS3だ。こうして、ブルーノートはその音源をふんだんに使って録音するDJユニットと初の契約をすることになる。そのデビュー・アルバムが『ハンド・オン・ザ・トーチ』(Capitol/BN)だ。 一方、本家本元のアメリカのブルーノートが契約したグレッグ・オズビーは、2枚目のアルバム『3Dライフ・スタイル』(新BN)で全編にラップをフィーチュア。こういった動きはブルーノートが新しい時代に突入したことを雄弁に物語って入る。 同時に、無視されがちだった70年代ブルーノートの再評価を始めたのもDJやラッパーたちだ。フュージョンがイージー・リスニングというMORに姿を変える前、ファンクやR&B、ソウルのエッジを持ちながらアクースティックからエレクトリックへと挑戦していったのはドナルド・バードに代表されるブルーノートのアーティストたちだった。もちろん、他にも素晴らしいレーベルはあったが、『39年以来、ジャズ界最高峰』を謳って、常に時代の先端で新しい音楽を創造し続けたのがブルーノートであることは否定できない。ロンドンで生まれた一連のダンス・ジャズ・ムーヴメント、あるいは、その影響下、クラブ中心に世界各国で派生していった様々な新しいスタイルの音楽がそれを見事に証明しているように思える。 |