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2006年11月25日

Flags of The Fathers (父親たちの星条旗) + 腰痛日記

父親たちの星条旗 クリント・イーストウッドが記者会見か、インタヴューで語った言葉が真実だと思っていた。

「政治家たちがどれぐらいの人たちを殺してきたか...」

 と、そんな感じだったと思うが、正確には覚えてない。いずれにせよ、意味はわかる。その通りなのだ。政治家を権力者に置き換えてもいいだろう。権力を持つものが、弱者である「一般人」を殺してきたのは歴史が全て物語っている。だからというのではないが、硫黄島をベースにした彼の監督作『Flags of The Fathers (父親たちの星条旗)』は見たいと思っていた。そう語る彼の視点が絶対に前面に出ているに違いない。というので、昨日見てきた。

 といっても、いつもの散歩の流れで結末としてこれを渋谷で見たことになるんだが、今日のコースは自宅から麻布十番、御成門、新橋、銀座と出て、そこから秋葉原に出るかどうするか... 悩み出したんだが、まぁ、1時間も歩けば今日の運動は充分だろうから、丸の内ピカデリーで上映時間をチェックすると19時からだというので、まだ1時間半も時間が余っている。じゃぁ... と、渋谷に移動。食事をして、19時15分からの上映を見た。映画館で映画... なんて、どれぐらいだろうなぁ。前回見たのを覚えていないところを考えると、数年ぶりなんだと思う。(試写会では『グッドナイト&グッドラック』を見ていて、その時のことはここに書いている。)

 驚いた。あまりに観客が少ないのだ。平日... といっても、金曜日。しかも、夜19時15分の上映だから、もう少し人がいるかと思ったんだが、この映画、メディアで騒がれているのとは裏腹に全然人気がないのかなぁ。30人ぐらいしか観客はいないんじゃなかったかと思う。

 この映画になにを期待していたのか? 別になにも期待していたわけではないんだが、クリント・イーストウッドの視点にだけは期待していた。まさか、彼がジョン・ウェインの『硫黄島の砂』みたいな陳腐な作品を作るとは思ってはいなかったから。でも、感動もなにもしなかった。ただただむごたらしく、醜い戦争の姿を見せつけられただけのように思える。それは「戦場」という現場のことだけではなく、「戦場」から遠く離れたアメリカ本土でさえ醜くむごたらしかった。おそらく、イーストウッドが見せたかったのは、これなんだろうが、あまりに悲しかった。

父親たちの星条旗 ストーリーは基本的に、あの硫黄島に星条旗を立てたとされる人の息子が書いた本。日本で言えば、「肉弾三勇士」といった趣に仕立て上げられる兵士の息子の目を通して、あの激戦の模様とそのむごたらしいまでの戦争の事実が描かれているという感じなんだが、まず思い出したのは『プライベート・ライアン』だった。あまりにむごたらしい「戦争の事実」(と思える)シーンの連続に、人間のばからしさをこれでもかと見せつけられ、ファシズムに対する「戦い」をも正当化できないということを再認識させられるのだ。ちなみに、この戦闘シーン、気の弱い人にはお勧めできません。あまりにグロです。気持ちが悪すぎます。おそらく、本当はもっと凄惨を極めているんだろうけど、それにしても... 吐き気がしました。

 さらに、「英雄」が作られる。そこに果たしたメディアの役割を考えざるを得ないのだ。日本とて同じだった。「肉弾三勇士」を検索して調べてみればいい。ほぼ同じことが行われているのだ。当時の大新聞がこぞって「英雄」を賛美し、狂気の戦争にみんなを駆り立てていった。その結果がどうなったかをここでわざわざ記すこともないだろうが、簡単に言ってしまえば、「権力者による市民の虐殺」だ。「救国」や「愛国」のスローガンの下、市民のみならず、どれだけの兵士が無駄死にを強要されていったか、思い出せばいい。この映画では、その英雄たちが結局は落ちぶれて亡くなっていったことなどが語られているんだが、映画を見た後の帰り道でなにもかもがむなしく、悲しく、人間のあほらしさを感じたというか.... 

硫黄島からの手紙 そのエンドロールを見ながら、誰も席を立たなかったのは、その続編の宣伝が流れるからなんだが、立場を逆にして描かれたという「硫黄島からの手紙」がこの続編としてもうすぐ上映されることになっている。さて、それは同じ島での闘いをどう描いているんだろう。それも、見に行こうと思う。なぜか、このごろ、「戦争」が頭を離れないのだ。湾岸戦争からイラク戦争、そして、その結果としての「逆戻りの世界」に生きているのが我々だ。間近に「戦争」があるというのに、そして、それほどまで多くの人たちが「政治家」に虐殺され、その片棒を担がされているというのに、その実感を感じることができないもどかしさ... しかも、日本は今戦前を生きている。あの時代と同じことが繰り返されているというのに、誰も動こうとはしないし、肌でその危険を感じようともしない。なぜか?

 今、小林多喜二の『蟹工船 一九二八・三・一五』を読み返しているんだが、それも、そんな気持ちの流の中にある。初めてあの話を読んだのはまだ中学生の頃だったと思うから、ほぼ35〜6年ぶりにこれを読むことになったんだが、あの舞台になっているのは今から70年ほど前の話。気が遠くなるほど昔にも思えるし、そうでないようにも思える、そんな時代の話だ。それを読みながら、時代を考えるようになった。しかも、ここ数年、年に数回は訪ねることになっている北海道の鉄道の歴史も知った。あの枕木は、そのひとつひとつが人間の死体によってできたんだと、ここに記されているんだが、そんな時代の上に今があることをもう一度再認識しようと思う。私達の今は無数の市民の亡骸の上で成り立っているんだという思いが強くなるのだ。

 あの映画を見た帰り道、第二次世界大戦に対する反戦運動があったこと、その時に主力となったのがウッディ・ガスリーやピート・シーガーだったこと... そんなことを思い出していた。奇妙なもので、iPodのスイッチを入れて、流れてきたのがエリック・アンダーソンの名作『ブルー・リヴァー』。なにやら、ガ〜ンと頭をぶん殴られたような気持ちになって帰宅した。


投稿者 hanasan : 2006年11月25日 01:33

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