音楽は世界を変える

反逆する音楽人の記録

 我ながら、素晴らしく単刀直入な邦題をつけたものだ。原題はドアーズの名曲と同じく『WHEN MUSIC'S OVER』。これは私白身が約2年を翻訳に費やし、昨年10月にやっとのことで出版にこぎつけた英国産の書籍に与えられたタイトルだ。著書は過去30年近くも音楽の政治的な側面を追いかけ続けているジャーナリスト、ロビン・デンスロウ氏。彼自身の言葉によると、タイトルは「音楽が鳴り止んでも、その影響力に恐れをなす政治家たちがいる」ということを意昧する。端的に言えば、これは音楽と政治の間にある有形無形の繁がりを記した本だ。残念ながら、優しいファシズムに侵されている日本では相手にもされない主題だが、この本を読んでいると、社会的、政治的変革に音楽やその周辺文化がどれほど大きな影響力を持っているかが一目瞭然に見渡せる内容となっている。

 序章の幕開けはボブ・マーリィの葬儀だ。この時、「彼は人間や肌の色、信条を越えたメッセージを持ち、世界中の幅広い抗議運動に関わっていた」とコメントしたのが当時のジャマイカ首相、エドワード・シーガ。その言葉はマーリィが単なるミュージシャンの枠を遥かに越えて、絶大な政治的影響力を持っていたことの証だろう。また、ジャクソン・ブラウンらを中心に70年代半ばに沸き起ったアメリカの反核運動が原発建設計画のほぽ全てを無期延期や中止に追い込んだ事実が語られ、スティーヴィ・ワンダーの『ハッピィ・バースデー』という曲をきっかけに、マーティン・ルーサー・キング氏の功績を称える、黒人にとって初の祝日が生まれた背景も記されている。さらに、四半世紀以上も獄中にいたアフリカ民族会議のネルソン・マンデーラの解放運動で果たした音楽の役割が、我々の想像を越えて遥かに強力だったこともわかるのだ。その他、ヴエトナム反戦、反人種差別や環境保護運動といった西洋の出来事から、音楽ジャーナリズムに無視されがちな旧東側や第三世界で何が起きているのか…。文字通り、世界を変えてきた音楽のドキュメンタリーがここに収められていると言っていい。 そのあとがきで私はこう書いている。

「西と東が、あるいは北と南が無数の糸で結びつき、政治や経済だけではなく、音楽的にも互いに影響を与えあっている……。もちろん、極東の端っこで生きる我々日本人もけっしてその例外ではない。事実、この本を訳しながら頭に思い浮かべたのは、残念ながら、ここには登場することがなかった『世界を変えた』日本の音楽だった」

 むろん、著者にそれを求めるのには無理がある。が、日本でも歴史を遡れば、自由民権運動時代にヴァイオリン片手に街角で歌っていた演歌師がいた。あるいは、ファシズムが支配していた戦前に『鬼畜米英』の敵性文化だと禁止されていたジャズやダンスホールの物語。そんな抑圧の中で歌ってきたミュージシャンがどれほど政治を意識していたのかはわからない。が、彼らの存在がそのまま政治的であったのは明かだ。

 特に、印象的だったのはウッディ・ガスリーやピート・シーガーの影響の下、音楽が政治と真っ向から対時した時代だ。ヴェトナム戦争真っ盛り、70年安保闘争を直前にした60年代後半、高石友也や岡林信康を核としてさまざまなミュージシャンが飛び出していた。高石はディランの『戦争の親玉』やバリィ・マクガイアの『明日なき世界』を絶妙な日本語訳で歌い、岡林は吉典的な反戦歌『モズが枯木で』といった曲に新しい命を吹き込むと同時に、高度経済成長の犠牲となった底辺労働者を歌った『山谷ブルース』などの名曲を量産。また、西岡たかしを中心とした五つの赤い風船は『血まみれの鳩』や『遠い空の彼方に』で反戦を訴え、彼らがヴェトナム反戦集会や平和集会で引っ張りだこになってゆくのだ。そんな背景の中で伝説となったのが新宿西ロフォーク・ゲリラだった。西口広場で東京べ平連の若者がフォークを歌う集会を幾度も開き、その最盛期には7千人もの人々を集めている。もちろん、彼らがヴェトナム戦争を終結に導いたわけでもなければ、日米安全保障条約が消えたわけでもない。少なくとも、目に見える政治的な成果はないと言う人もいるだろう。が、当時10代だった少年少女たちにとてつもない影響を及ぽしたのが彼らだった。岡林の『手紙』で未解放部落間題を知り、『お父帰れや』で出稼ぎ労働者の悲劇を知る。あるいは、連合赤軍の浅間山荘事件を歌った友部正人の『乾杯』でメディアと人間の不毛を感じ、遠藤賢司の『満足できるかな』のライヴで叩かれる政治家の名前に歓声を飛ばす。おそらく、今も続く学校の管理教育に対し、私自身が『丸刈り反対闘争』や『制服廃止闘争』などを企てたのも、彼らの影響があったからだろう。

クラプトンの差別発言

Red Wedge  ところが、70年半ばを過ぎると、そんな声がプッツリと聞かれなくなる。そして、ニューミュージックの名の下に、アンダーグラウンドから浮上して商品化されたのが音楽文化。おせっかいででしゃばりな政治発言が避けられ、政治的意識を持つことさえもがネクラの一言で片づけられるようになる。もちろん、それは海を隔てたアメリカとて似たようなものだった。60年代の疲れを癒すように極めて保守的で内省的な歌が主流となっていったのが70年代半ば。かつてのプロテスト・ソングは影をひそめ、40万人を集めたウッドストックで証明されたロックの商品性がこの頃から花開いてゆくのだ。ただ、それでもわずかに生きながらえた政治的な音楽が徐々にその影響力を発揮してゆく。60年代のヴェトナム反戦や公民権運動のように集合的な運動ではなかったが、アメリカではブラックパンサーに代表される黒人解放運動が成長し、フェミニズムにゲイ解放運動や環境保護運動からアメリカ・インディアンと呼ばれる先住アメリカ人の権利を守る運動などで、数多くのミュージシャンが政治的な運動を続けていた。そのひとつが前述の原発建設計画の中止といった政治的成果に結びついてゆくのだ。

 一方、英国では70年代後半に生まれたパンクや本格的に紹介されたレゲエが強烈な反人種差別運動を触発。きっかけは76年にバーミンガムで開かれたエリック・クラプトンのコンサートだった。ここで彼は「黒ンボは英国から出ていけ」と人種差別発言を繰り返し、そんな動きに対抗して英国で初のポップ・ミュージシャンによる政治圧力団体、ロック・アゲインスト・ザ・レイシズム(RAR〜人種差別に反対するロック)が結成されている。それ以前、パンクのコンサートに集まるのは白人で、レゲエは黒人と相場が決まっていたのだが、RARは意図的に両者を融合する数々のコンサートやフェスティヴァルを企画。ここからスカを基調に両者が合体したコンセプトを持つ2トーン・ムーヴメントが生まれ、失業や不景気を背景に台頭していた右翼勢力に大きな打撃を与えていった。

 さらに、その政治的成果はNATOの中距離核ミサイル配備間題に端を発した驚異的な反核運動に発展。数々の反核集会に姿を見せていたジャムのポール・ウェラーやビリィ・ブラッグを中心に音楽文化の政治的影響力が遺憾なく発揮されてゆくのだ。それは左翼と右翼保守派にとって英国政治史上最大の対決となった炭坑スト支援運動から、音楽芸能業界関係者による政治団体、レッド・ウェッジの誕生にも繋がっている。彼らは既成政党、労働党を支持すると同時にその政策決定に圧力も加え、保守党政権打倒のためにコンサート・ツァーなど、さまざまな形で活動。そういったミュージシャンの政治的影響力の認識が生んだ結果の一端がボブ・ゲルドフのバンドエイドやマンデーラ解放運動だろう。

日本と海外とのギャップ

 もちろん、日本を西洋と単純比較すことはできない。経済不振にあえぎ続けていたアメリカや英国に対して、急成長を続けたのが日本の経済。バブルが崩壌した今でこそ、失業率上昇が伝えられるようになったものの、70年代から80年代の日本は表面的には平和な時代だったのだろう。が、『音楽は世界を変える』を翻訳しながら、次々と沸き起こって来たのが数々の疑間だった。アメリカの反原発運動に火をつけることになったスリーマイル島の原発事故に匹敵するものが日本にはなかったのか…… 在日韓国人に対する差別とアメリカの少数派民族に対する差別のどこに違いがあるのか…… 特に音楽界や芸能界で活躍する在日韓国人が多い日本でなぜこの間題が表現されないのか…… それを単に政治意識の欠如のせいだとして言い切ることはできないように思えるのだ。

 実を言えば、日本には数多くの政治的な音楽や政治性を持ったイヴエントは存在していた。例えば、80年代半ばには英国の反核運動の影響を受けて開催されたアトミック・カフェ。フェスティヴァルがある。反原発と反核兵器を基調に、海外からのゲストも含めて数多くのミュージシャンが出演したこれは、コンサートに止まらずデモも企画。わずかながら、数百人の若者やミュージシャンが従来のデモの常識を破るいでたちで赤坂から銀座を抜けて行進していたのだ。しかも、これは一過性のイヴェントではなかった。フェスティヴァル形式のコンサートは3回開催され、その余波は多方面に広がっていった。その直後から、いわゆる政治団体主導型の反核運動に飛び込んでいったのがパンクっぽいスタイルやドレッドロックに決めた子供達。社会性を帯びた詩を歌うアーティストも続出し、彼らの意識に明確な政治変革の芽生えがあったのは見逃せない。

 ところが、残念なことに、そういったイヴェントや政治的な動きがメディアの中で正当に伝えられたことはほとどなかった。音楽メディアは政治性を追求することなしに表面的なレポートに終始。ジャーナリズムの欠落した彼らが扱っているのは音であって、ミュージシャンが音楽で表現している言葉やその奥に垣間見える世界ではない。その積み重ねが日本と海外のミュージシャンとの間に奇妙なギャップを生んでゆくのだ。その典型が数年前に開催されたアムネスティ・インターナショナルのコンサートでの出来事だろう。ピーター・ゲイブリエルらが南アフリカのアパルトヘイトを糾弾し、南米の政治犯の釈放を求めている時に、「平和はいいですねぇ」としか語れなかったのが日本人スター。本来の政治性よりも経済性を優先した主催者側の怠慢と音楽に対する無理解がこういった発言しかできないミュージシャンを登場させたのだろうが、あの発言はあまりに陳腐で滑稽だ。特にロンドンとバルセロナで2度に渡ってこのフェスティバルを体験した私には、政治集会としても成立しえた海外とただのコンサートに終わった日本との落差に愕然としたものだ。

圧力に抵抗せよ

 そういった音楽ジャーナリズムの不在が招いたのが湾岸戦争時の『放送禁止』問題だった。英国やアメリカでジョン・レノンの『イマジン』などが放送禁止処分を受けた時、それを真っ先に報道したのは音楽雑誌ではなく一般週刊誌。時間的な速さでは勝負できないとしても、それをさらに堀り下げて詳細に伝える音楽雑誌があってもよさそうなのだが、結局は『放送禁止』に対する感想程度に終わったのがほとんどだった。しかも、あの『放送禁止』はなにもアメリカや英国に限ったことではなかった。放送禁止曲のリストこそ入手できなかったが、「戦争に関して一切のコメントを控える」よう出演者に通達を下した放送局も数多い。また、未確認だが、この時『要注意歌謡曲』として放送基準審査会で放送禁止を食らったのが20年も前にヒットした加川良の『教訓1』と言われている。戦争に反対し、「命はひとつ/人生は1回/だから命を捨てないようにネ」と歌われるこの曲が本当に放送禁止処分を受けたとしたら、それは札束で参戦した政府の意向を受けた政治圧力と言論弾圧にほかならない。

 また、この『放送禁止』なる言葉がそもそも曲者だ。基本的には未解放部落や外国人、身体障害者、あるいは、職業に対する差別や女性蔑視などがその基準となるらしいが、拡大解釈や音楽の政治性を理由にした『放送禁止』は明らかな言論統制となる。さらには、暴力団まがいの政治圧力団体の、抗議に名を借りた恐喝行為に怯えて政治的な曲の放送を『自粛』している放送局の場合はどうか。いずれにせよ、言葉の理解しにくい外国曲を除いて、そういった姿勢が社会性のある曲をラジオやテレビから締めだしているのは事実。まるで去勢されたかのようなこの状況を、音楽ジャーナリズムもミュージシャンも絶対に避けては通れない。

 実はアメリカでも同様の状況が生まれつつある。レコードで歌われている曲の歌詞をチェックし、危険性のあるものに『要注意』のステッカーを添付するというもので、これを提唱したのが現副大統領夫人、ティッパー・ゴアが作った圧力団体、PMRC(保護者による音楽救済センターの意味)。簡単に言えば、彼等が求めていたのは教育上好ましくない歌詞を音楽から締めだすことだ。が、その概念はセックス、ドラッグから造反性にまで拡大され、そこに検閲の危機感を持ったのがフランク・ザッパ。彼は聴聞会や自らのレコードで検閲反対闘争を展開していくのだ。

 おそらく、この状況を知ることなく、アメリカのミュージック・シーンを知るのは不可能に近い。人種差別や経済不振の反映のみならず、政治的な過激さを強調したアーティストが増えているのはなぜか。それは急激に反動化するアメリカヘの抵抗でもある。また、ポルノは解禁されていても、公共のメディアで禁じられているのが性的な表現。だからこそ、ブリンスやマドンナはセックスを打ち出しているのであり、彼らの脳裏にこの検閲があることは容易に想像できる。

 もちろん、それは現実感の乏しい海の向こうの話に過ぎない。かといって、それを見過ごすこともないだろう。経済不振と大量の失業者、そして不法滞在する外国人に対する人種差別の発生と右翼の台頭…… アメリカや英国と同じ状況は、もうすでにそこまでやってきている。そうなった時、我々の文化がそんな状況に対抗できるかどうか、それは全て我々の手に委ねられている。『歌は世に連れ、世は歌に連れ……』でもないが、文字通り、音楽は世界を変え、世界は音楽を変えているのだ。少なくとも、音楽にかかわる人々はそれを肝に銘じておくべきだろ。

92年執筆

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