[市民平和訴訟の会・東京]
「市民平和訴訟」の六年を振り返って

1997年8,9月合併号(通算321号)より転載

「市民平和訴訟」の六年を振り返って  弁護士 加藤朔郎

 一九九〇年夏以後の湾岸危機から七年、湾岸戦争から六年半が過ぎた。湾岸危機・戦争に際して、日本政府はアメリカ政府・議会の圧力に屈する形で、多国籍軍に九〇億ドルもの戦費を拠出することを決定し(周辺諸国への支援、追加支援を含めると総額一三五億ドル)、また避難民輸送という理由で自衛隊機を派遣するための「特例政令」を制定し(その後廃止)、ペルシャ湾へ自衛隊の掃海部隊を派遣した。第二次大戦後初めて、日本が直接戦争に金を出し、自衛隊という日本軍を海外に派遣したわけである。
 全世界の国民に平和的生存権を保障し、戦争を放棄した憲法をもつ日本が戦費を負担し、自衛隊を派遣するということは、日本が戦争に加担することであり、自分が支払った税金が戦争に使われることは許せない、何とか阻止したいとの思いで九一年三月に提起したのが「市民平和訴訟」である(東京地裁に提出した訴状については、本誌二五八号・四〇頁参照)。この訴訟は東京(原告総数一〇六六名)の外、名古屋・大阪・広島・鹿児島の各地裁で争われてきた。
 東京地裁は一九九六年五月、平和的生存権も納税者基本権も裁判規範としての具体性に欠ける等の理由で原告の請求を却下あるいは棄却する判決をし、東京高裁も今年七月に控訴を棄却した(現在上告中である)。
 この訴訟は結果としては成果をあげたとは言えないが、裁判運動として振り返って見ると、非常にユニークな裁判であり、東京地裁・高裁において日常的に見られる形式的で権威的な訴訟指揮を乗り越える活動ができたという点でも評価できると考える。
 この訴訟は「市民平和訴訟」という名にふさわしく、団体・組織とは無関係に、戦争に加担したくない、自分の税金を戦争という人殺しに使わせたくないと願う人々が、戦費拠出と掃海部隊の派遣を阻止するために訴訟という手段を選んだのである。
 当初は、このような訴訟は証拠調べにも入らず、あっという間に結審されてしまうのではないかという危惧もあった。しかし原告となった市民とそれを支援する人々の真摯な、しかも熱心な法廷内外の活動により、一審において二〇回の口頭弁論を開かせ、三名の証人尋問と四名の原告本人尋問を実現した。
 原告団と代理人は最初から「法廷を学習の場とする」という方針で進めてきた。この学習は、原告が学習することはもちろん、被告国の代理人そして裁判官にも学習して貰おうという意味である。私達は、「学習の場」として大法廷を使うよう求め、最後まで一〇一号又は一〇三号法廷が使われた。この法廷の傍聴席は約一〇〇名が入れる。毎回ほとんど満員であった。その他、当事者・代理人席も三〇以上を用意して貰い、ここも満席であった。口頭弁論においては、訴状も準備書面も証拠申出書もすべて口頭で述べることを徹底した。そのため、第一回期日には二時間を確保し、一一名の原告と代理人が分担して訴状の陳述と意見陳述を行った。
 第一回期日で忘れられないことは、多国籍軍が爆撃している最中にイラク国内に入り、爆撃の実態をビデオ撮影したラムゼー・クラーク元司法長官が傍聴に参加し、彼の意見を原告の一人が代読したことである。この間、彼は傍聴席の最前列で起立していた。裁判長は着席を命ずることなく意見陳述を聞いていた。原告団はクラーク氏の撮影したビデオを証拠として提出した(このビデオは後日、法廷に大スクリーンを設置し、公開法廷において訴訟関係人すべての前で再生・検証した)。
 原告らは訴状を提出するときから、平和を象徴する花を一輪づつもって裁判所に入った。当初は警備員も花をもっている原告団にとまどい止めさせようとしたこともあったが、庁舎管理規定にもさすがに花をもって法廷に入ってはいけないとは書いてないから、何も言わなくなった。
 原告団のほとんどは裁判にかかわった経験は今回が初めてという人々であるが、まことに多彩な顔ぶれである。先の大戦に兵士として召集され中国で戦闘に参加した経験をもつ男性、イラクの子供たちに食料・医薬品を届けるため自費で六・七回もイラクに通っている女性、被爆者でありキリスト者として戦争加担に絶対反対であるという男性。ジャーナリストとしてアメリカの中東における軍事政策を調査研究し、多国籍軍の中核となった米中央軍の準備が整った時期に湾岸戦争が起こされたことを突き止めた人もいた。ある女性は湾岸危機が始まって以来の新聞記事を丹念にスクラップにしていて下さり、このスクラップは書証として又訴状・準備書面を作成する上で大変役に立った。
 第二回以降も、証人・本人尋問期日以外の期日には毎回三名ないし五名の原告が意見陳述を行い、文書も提出して口頭弁論期日調書に添付させ、記録に残すよう努めた。この意見陳述は、それぞれの人生と体験に裏打ちされた極めて感動的な内容であり、日本国憲法の平和・戦争放棄という精神は正にこのような市民一人一人が支えているのだという感銘を受けた。感動的な陳述が終わると期せずして傍聴席から共感の拍手が沸いたが、裁判長ははじめの頃に「拍手はやめて下さい」というだけで、徐々に制止しなくなった。
 原告代理人は、湾岸戦争の遠因が列強諸国による石油争奪、勢力拡張競争にあったこと、国際法上かつては戦争が国家の権利の行使と認められていたが、戦争が違法とされるようになったこと、また戦争犯罪においては国家あるいは上官の命令に従っただけであるという抗弁は認められないこと(ニュルンベルク原則)などを述べた。これらは、湾岸戦争が決してアメリカや日本政府が言うような正義の戦争ではなく、アメリカの石油を支配しようとする政策・中東を支配下に置こうとする政策に基づく戦争であったことを明らかにするものである。
 また、日本政府が九〇億ドルの戦費を実際に支出した相手は湾岸平和基金という組織であるが、この基金にはアメリカに近い一三か国が構成する湾岸アラブ諸国協力理事会の事務局長(クウェート人)と、日本の駐サウジアラビア大使の二名しかいないということが判明した。掃海部隊派遣の理由につき、国は「我が国船舶の航行の安全を確保するため」と主張していたが、掃海部隊が掃海を行った海域には日本のタンカーは航行していなかったということ、従って日本政府は国民に嘘の説明をして自衛隊を海外派遣したことも明らかになった。
 このように、マスコミでも報道されず、国会においても余り論議されなかったような事実を解明し主張したが、国側代理人はもちろん、裁判所もこれらのことには関心を示さず、冒頭に述べたとおり極めて形式的・表面的な判断をして請求却下あるいは棄却の判決を下した。原告の方々は、裁判所・裁判官に憲法を守る姿勢がないこと、国側がほとんど発言せず、当事者同士が直接口頭にて議論しないことなど、裁判制度の限界を認識しながらも、自分たちの訴訟活動に自信を持ち、また裁判所と国を変えていく展望をもって上告審を闘おうとしている。


叩けよ、さらば開かれん!  市民平和訴訟原告 大橋聡美

 真っ白なバラや百合を、翌日の提訴に備えて私は、深夜ひとりで花束にした。あらゆる戦争で亡くなった方へ捧げたいと。
 一九九一年三月四日、「戦争に税金を払わない!市民平和訴訟」の幟やプラカードと共にその花束を抱いて私たち原告は、東京地裁にむかった。幟やプラカードをしまわなかれば、一歩も入れないと言う職員たちも、花束を持って入ることは認めざるをえなかった。
 あれから、地裁・高裁合わせて二三回の口頭弁論、三回の提訴や控訴には、原告も弁護士も傍聴人もいつも手に手に花をもって裁判所に行き、法廷に入った。花を準備する人もいろいろな人が携わり、その花によせる思いもさまざまであった。法廷を日常の場にしよう、と花をもって入った人たちもいた。平和のシンボルとして花を用意した人たちもいた。私たちそれぞれの思いや願いを表現した『花』を、誰も阻止することはできなかった。
 日本政府を相手にした六年半の裁判で判決として私たちが手にしたものは、却下であり棄却であった。
 でも、私たちは、口頭弁論を不十分ながら口頭弁論にした。日本の裁判は、口頭弁論といいながらほんの一分か二分の書類交換で終わってしまうのが慣例になっている。だが私たちは、大法廷で毎回一時間から二時間かけて、数名の原告が心の傷みや怒りをのべ、思いを語たった。弁護士さんたちも原告に理解できる日本語で要旨を述べた。
 私たち原告と弁護団は、そのために数日かけて議論をし、証拠づくりをした。最終電車に乗り遅れそうになりながら。そうまで私たちを駆り立てたのものは、人を殺すことに加担してしまった、取り返すことは決してできないという気持ちである。そして、二度と繰り返させてはならないという切実たる思いである。
 そういう私たちの要請に応えて裁判長さえ、地裁でも高裁でも、判決の時要旨を述べた。にもかかわらず、日本政府の代理人は、時折、聞き取れない声で「不知です」とかいう、聞いたこともないようなことを言っただけだった。
 私たちが手にしたものは、ほんの僅かなものでしかないかもしれない。でも、目に見えないほどの成果でもつもりつもれば、いつかは・・・というのが現在の私の心境である。
 しかし、やればやるほど、この裁判の難しさもわかってきた。地方税の使い方が違法であると判断した場合は、住民監査権が認められている。しかし、莫大な額である国税に対しては、そのような権利を明記した法律がない。具体的な法律の必要性を必至に感じている。同時に、日米ガイドラインで中東まで防衛範囲を広げた今日、やっぱり多くの専門家の方々にこの裁判にお力添えをお願いしたい、という気持ちがあふれていることも事実である。


市民平和訴訟の顛末記  市民平和訴訟原告 大畑豊

 そもそも裁判なんてする気なかった。「裁判なんかしたってどうせ負けるにきまっている」と思っていた。ただ湾岸戦争、および九〇億ドル支出に反対する一連の行動に参加していてとにかく支出を止めさせたい、そのためなら何でもという気持ちが強かった。そんなときに「違憲裁判をするから」という呼びかけを無視できず参加したというのが最初のきっかけだった。それに裁判なんて滅多にする機会が無いので興味本位、というのもなきにしもあらずだった。
 ただいざ始めてみると思っていた以上に裁判というものは手間暇かかり、手間暇かけている間に愛着が出てきた、と同時に裁判所の対応のひどさにやる気を起こしたというのが実状である。
 裁判所のひどさの第一番目は勝っても一万円しかもらえないのに、一人約六〇億円もの裁判手数料を要求されたこと。イラクに行って現地調査してきたアメリカ元司法長官ラムゼー・クラーク氏がわざわざ第一回口頭弁論に合わせて来日したのに証言させなかったこと、勝手に担当裁判官、裁判長が代わり、原告に一言の挨拶も無いこと、等々枚挙にいとまがない。
 これに対し原告も世論に訴え手数料に関しては大幅ディスカウントを勝ち取り、クラーク氏の主張を原告が代弁し、代弁し終えた女性の原告が傍聴席最前列にいたクラーク氏に歩み寄り熱いキスを交わしたりした。これには私もびっくりした。たいしたものである。勝手に担当裁判官が代わるものだから弁論予定の原告が次々にそのことを非難し、「配慮に欠けてた」との「謝罪」を裁判官に言わしたり。居眠り裁判官、被告代理人に対してももちろん私たち原告は黙っていない。毎回毎回ドラマのようでとても刺激的な法廷であった。単に刺激的なだけでなく、各原告の弁論は魂からの訴えというにふさわしく感動的でもあった。法廷には若い傍聴者も多く、事後集会には感想も寄せてくれるのでいくつか紹介したい。
 「一連の平和訴訟は人間の根元にかかわる問題であると思う。しかし裁判所は余りにも事務的な態度をとった。苦しまぎれの統治行為論を盾に、スケールの小さな司法の姿に失望したくなる。それでも平和への想いはあきらめたくない」
 「初めて裁判をみたが、国側のやる気のなさと、原告の感情に訴えるやり方に驚いた。法学部志望だったがいかに根拠のない志望であったかを感じた。」
 「裁判長の心ない発言に失望しました。」
 この他に私たちに対して批判的な意見も率直に書いてくれるので感想欄を読むのがいつも楽しみである。
 この裁判をしたからこそ学べたことも多く、湾岸戦争の残忍さ、国際法違反、税金のこと、裁判制度の矛盾、そして人々の平和に対する熱い想いに触れることが出来たと思う。この裁判を通していろんな人々に知り合えたのも良かった。私たちの共通項は「湾岸戦争への九〇億ドル支出反対」ということだけである。いろんな市民運動に参加している人もいるし、運動というものに初めて参加した人たちもいる。だからいろんな意見も出る。特に運営委員会は時には、あるいはしばしば修羅場と化す。「平和」というのは実に難しいものだと実感する時である。
 控訴審判決が出た。「原告らの控訴を、棄却する」。
 悔しそうな顔をしていたかもしれないが心の中では「こんなもんだろ」という開き直りもあった。けど、やはり残念である。少し落ち込んでいるとどこからか声がする「気にしない、気にしない」。負けても私は気にしない。気のやさしい代理人たちの不安も気にせず上告あるのみ。


恐るべし素人集団   市民平和訴訟原告 田村秀行

 この訴訟の母体である「市民平和訴訟の会・東京」というのは、非常に独特な会だと思う。まず、専門家がいない。これは法の専門家ということでなく、こうした運動の専門家のことである。私は一審の後半から積極的に参加するようになったので詳しくは知らないが、訴訟の呼びかけは有名人・専門家が行なったそうである。しかし、それらの人はすぐにいなくなり、私が参加してからは見たこともなく、また、控訴人になった人も極めて稀である。従って、この会は、本当の意味で〈素人集団〉なのである。
 加えて、単に〈素人集団〉であるだけではない特殊な様相を示している。まず、中心として動く人物がいない。特に控訴審になってからはそれが明確である。そして、運営委員の中にこの訴訟に絶対的な熱意を持っている人間も見当たらず、皆が部分的な力しか出す気がないのである。この二つの条件のもとでは、普通ならば運動は行き詰まるものであるが、この会はその部分的なものが事を進行させている現象を生んでいるのである。
 この度、上告することになったが、専門的な人からは反対意見が多かった。しかし、〈素人〉がやめようとしないので、準備が進んでしまった。この場合にも、特に積極的な旗振り役がいたわけではない。部分的なやる気が集合しただけである。私も、上告する人がいるのならば名簿・会計係は続けると言っただけである。
 こうしたことが起こる原因を考えてみると、やはりこの会が〈素人集団〉だからであると思う。今残っている人はほとんどがこの訴訟で初めて司法界に触れたという人間である。そして、次をやろうという気があるわけではないので、ただ一度の機会だから途中でやめるのもいやだ、というくらいの気なのである。上告の場合は、最高裁に行く機会なんかこの後にあるはずはないからやってみたい、という気分なのである。専門の方から見れば、まさに〈素人〉ほど恐いものはない、というところであろう。
 そして、もう一つ、〈素人〉であるために、当初積極的に加わっていなかった人間が、あとからやる気になったり、同じ〈素人〉に申しわけなくなったりして、運営に加わってくるという特徴がある。控訴運営委員は11人のうち7人が一審の非委員であり、上告の準備委員も代表5人のうち4人が控訴準備委員ではなく、2人が運営委員でもない。訴訟という性格から原告以外に正会員は増えないのに、その中から新たな人が次々出てくるというのも珍奇な現象ではないだろうか。
 最後に、私個人の話をする。私は予備校の現代文・小論文講師であり、毎年多くの生徒に接している。そうして、特に小論文では社会現象について随分偉そうなことをしゃべっているのである。その手前、何か具体的にやっていなければ格好がつかないという気持があった。そこに降って湧いたのが湾岸戦争であり、原告募集の記事を見たので応募した。そして、人よりは多いくらいのカンパを毎回して気をすませていた。これは早く言えば偽善である。
 しかし、悪を隠す偽善でなければ偽善も善のうちであり、何もしないよりは社会に役立つ。私の場合ははっきりそうなった。それは生徒に傍聴を勧めるようになって、自分も動かなければならなくなったからである。それからは堂々と話が出来るようになったのだが、ここではっきりわかったことは、行動した上で話さなければ子供は大人の話をきかないし、行動が伴っていればかなり興味を示してくれるということである。私の〈素人〉の力はこのことを確認したことで実った。これだけでも十分の成果だと思っている。結果として上告することになったので、その話が生徒にできると思うと嬉しい気分である。

[参考書類インデクスページに戻る]