[市民平和訴訟の会・名古屋]PKO訴訟控訴理由書(一)

(注1)控訴人の個人名は「*」で置き換えてあります。
(注2)丸付き数字は、カッコと数字に置き換えてあります。


一九九八年(ネ)第八三四号

控訴理由書(一)

    控訴人 ****
          外四五名
    被控訴人 国

一九九八年一二月八日
    被選定者(控訴人)   ****
    被選定者(控訴人)   ****
    被選定者(控訴人)   ****
    被選定者(控訴人)   ****
    被選定者(控訴人)   ****
名古屋高等裁判所
 民事第四部合議係御中

         記

目 次

第一 原審判決批判
 一 憲法の危機に際しての裁判所の責任の喪失
 二 人権の根源たる平和的生存権否定の論理批判
 三 民主主義国家における納税者の権利否定の論理批判
第二 PKO等協力法の違憲性
 一 憲法九条違反のPKO等協力法
 二 矛盾したPKO五原則
 三 「PKF本体業務の凍結」の違憲性
第三 違憲審査と違憲確認請求
 一 違憲審査制度の有名無実化
 二 違憲審査制度と憲法訴訟
 三 日本の違憲審査制
 四 政治(行政・立法)におもねる司法と違憲確認

第一 原審判決批判

一 「憲法の危機」に際しての裁判所の責任の喪失

 1 審理と判決の乖離
 原審審理は、一九九三年七月一二日の第一回弁論以来、九八年五月一一日の結審に至るまで二〇回にわたって原告本人並びに代理人の意見陳述、五回の証拠調べ等が行われ、先の九月七日、判決が出された。
 証拠調べにおいて、被控訴人国は反対尋問を全くなさなかったが、控訴人らによる尋問は、考えられ得る限り、自衛隊派兵の違憲性と派兵に代わる国際的貢献を具体的に明らかにしてきた。浅井、森、前田各氏に対する証人尋問は、その専門的な学問的研究に於いて、日本の自衛隊が海外出動することの違憲性や危険性を詳細に指摘した。控訴人側本人尋問の内容も、極めて高度な専門性に裏打ちされた研究を元に、「新たな戦前」に対する危機意識をあきらかにした。また同じく控訴人側**本人尋問は、カンボジアへの自衛隊派兵が、実際に働いているNGOの立場から、いかに違憲であり、また不必要なものであったかを明らかにした。足かけ六年にわたる原審審理は、裁判所が、私たちの主張を認め、証拠調べ等を行った審理指揮と理解してきたが、その判決たるや、信じられないほどの短さで私たちの請求を却下あるいは棄却してしまった。この間の証拠調べには一顧だにせず、判決そのものが、長期間行われてきた審理を全く無視したものであり、とうてい控訴人の「裁判を受ける権利」を擁護したものではなかった。しかもこれほどの憲法の危機に際しての救済の手を一切貸さないとすれば、今後の司法の歴史に汚点を残すことは明らかである。

 2 違憲の状態を放置する裁判所
 自衛隊は、本件訴訟以降、ルワンダ、モザンビーク、ゴラン高原と、その派兵形態も武器装備の規模・性格等も徐々に拡大強化され、現在に至っている。またハリケーン被災地の突然のホンジュラスへの「緊急援助隊」として、何の議論もないまま自衛隊を海外に出動させている。かつては海外出動そのものが国会決議により禁じられているにもかかわらずである。政府は、湾岸戦争で掃海部隊を派遣したことに端を発して「国際貢献」を旗印に、PKO等協力法を強行採決し、本件カンボジア出兵を強行した。今や、国民一般には、自衛隊という軍隊が海外に出ることに何ら違和感がなくなっていることに、控訴人らは愕然とする状況に立ち至っている。
 近時、日本政府は、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の「核ミサイル疑惑」から、アメリカとのTMD(戦域防衛構想)の共同研究、あるいは「軍事偵察衛星」の利用まで、何の国民的合意も経ないまま、一方的に突き進めている。他方で、税金であるところの「防衛予算」を食い物にした、防衛庁に関わる汚職事件が相次いでいる。立法府たる国会は、こうした私たちの税金を使って違憲・違法な行為を繰り返す政府・防衛庁等に対してなんらチェックすることすらないのである。
 こうした行政府・立法府の違憲・違法行為を本来正すべき位置にある司法府としての裁判所は、まさに本件原審判決によってチェックしなかったわけであり、「三権分立」とは名ばかりの、国民あるいは納税者不在の事態を招いている。

 3 歴史的責任を放棄した原審判決
 原審判決は、「平和的生存権」並びに「納税者基本権」が「原告ら固有の権利、利益ではなく、国民のすべてに等しく関わる利益にすぎない」として、「単に国民、納税者としての地位に基づいて国に対し、国の行う具体的な国政行為の是正等を求める訴え」を「民衆訴訟」に当たるとして訴訟そのものの不可能性を述べている。違憲確認に関しては後に詳論するが、平和的生存権が、仮に判決の通り抽象的な「すべてに等しく関わる利益にすぎない」としたら、具体的にそれが問われる状況とは、いつ、いかなる時であろうか。戦争状態の生命の危険なときに誰が裁判所に訴えることができるであろうか。裁判所は、まさに平和時に於いて、国民並びに納税者が具体的に戦争に巻き込まれ、被害者になって生命の危険にさらされたり、あるいは戦費を負担したり、自ら加害者になったりすることのないよう、できうる限り権利侵害を具体的に明らかにして、戦争の防止につとめるべきであろう。平和的生存権はあらゆる人権の根幹に存在するのである。それが日本国憲法の前文並びに九条の根本的な趣旨である。裁判所は、日常的にその趣旨を尊重、擁護する義務を負っているのである。
 原審判決は、さらに「自衛隊のカンボジア派遣という過去の事実であって、現在の法律関係に係るものでないから」として、「違憲確認に係る訴えは、確認の利益を欠くもの」として判断している。もともと原審は最初「差止」を求めたものであり、審理の過程で自衛隊がカンボジア現地から帰ってきたのである。裁判所は最初の、その差し迫った時に、先ずは違憲の判断をするべきであった。それがその時点を過ぎて「過去の事実」としたのは、ひとえに裁判所の責任であり怠慢である。しかも海外派兵という事実は、それ以降カンボジアにとどまらない。政府の違憲行為は、なんらチェック機構が働かないところで、現在まで続いているのである。
 原審判決は、平和的生存権を「人権の基礎にあってそれを支える理念的権利」として「具体的な法的権利性」を否定している。しかしながら憲法上の様々な人権も、例えば幸福追求権も、具体的な平和時においてしかあり得ないことは、火を見るより明らかである。戦時下の南京やルワンダやサラエボにおいて、いかなる人権が保障されていたのだろうか。 戦争の二〇世紀が、今まさに幕を閉じようとしている。一見東西問題が解消したかに見える国際社会において、限りない紛争の火種が存在し、現実にも発火している。そうした中にあって、憲法前文と九条の「恒久平和主義」は、国家や世紀を越えてますます意義を持ったものとなっているが、この原理を抽象的な次元でとらえて、現実に進行している事態をチェックすることができないならそれは歴史に耐え得ないものになるであろう。
 まさに原審判決はそうした歴史的責任を放棄したものの一つである。

二 人権の根源たる平和的生存権侵害否定の論理批判

 原判決は、平和的生存権について「憲法はその前文において日本国民が恒久の平和を念願し、全世界の国民が平和のうちに生存する権利を有することをうたい、九条において、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使を放棄し、戦力を保持せず、国の交戦兼を認めない旨規定している。」としつつも、「その内容・根拠・性質が不明確であるため、人権の基礎にあってそれを支える基本的権利ということができるとしても、裁判で争うことのできる具体的な法的権利性を認めることはできない。・・理念ないし目的としての抽象的概念であって権利としての具体的内容を有するものとは言い難い・・」として、「右各条項を根拠として、日本国民ないし日本国内に居住する外国人各個人に対し、憲法により保障された個別的な基本的人権として平和的生存権が保障されているとか、法律上なんらかの利益が保障されていると解することはできない。」「法的保護の対象となり得る権利、利益とは言い難い」と結論づけた。
 憲法前文は、「日本国民は、‥‥‥政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうに決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、‥‥‥この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。‥‥‥日本国民は、国家の名誉を掛け、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」と平和的生存権について述べ、この前文を承けて、憲法第九条は、「‥‥‥国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。」同条二項で、「前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と規定している。
 大日本帝国政府の行為によって他国民及び自国民に戦争の惨禍がもたらされたその反省の上にたって、憲法が制定され、憲法の前文と第九条において政府による戦争放棄と国民の平和のうちに生存する権利(平和的生存権)が繰り返し述べられ、確認されているのである。このように憲法前文と第九条に明文化されている平和的生存権はまさに実定法上の権利(「法的保護の対象となり得る権利、利益」)にほかならないのである。
 湾岸戦争における掃海艇派遣以来、本件で問題になったカンボジアへのPKO派遣、モザンビーク・ゴラン高原への派遣など、自衛隊が海外に派遣されるのは常態化しており、この流れの中で武器使用もなし崩し的に合理化されてきているのである。また、最近の政治状況を見ると「自自連立」によって「国連軍への参加」も容認されようとしている。まさに、憲法の平和理念がなし崩しにされ実体としての戦争へと突き進みつつあるのである。
 このような中で、裁判所が平和的生存権を「理念ないし目的としての抽象概念」と言いきることができるのは、平和ボケとしか言いようがない。確かに、戦争のにおいもない平和な世にあっては、憲法前文並びに第9条の趣旨は「理念」として済ますことができるかも知れない。しかし、今日、確実に戦争への道を日本国がたどろうとし、将来「生存権」が侵されるような事態になれば、とても「理念」では済まされない。別に「PKO派兵の現状と違憲性」で詳しく述べるように、現在のPKOをめぐる状況は「戦争前夜」というべきであり、日本に居住する人民の権利を憲法に基づいて擁護すべき裁判所がそういった現況を顧みることなく、表面的な理解で平和的生存権の「法的保護の対象となり得る権利、利益」であることを否定することは、そういった現況に加担することであり、司法が行政・立法をチェックするという自らの責任を放棄しているという他はない。

三 民主主義国家における納税者の権利否定の論理批判

 納税者基本権に関することについても同様なことがいえる。原判決は、「国費の支出内容に関しては、・・国会の議決に基づくべきことが定められているほかは、国民個人の直接の権利行使に従ってこれを決定し、あるいは是正する制度はなんら規定されていないのであるから、憲法が、・・裁判規範性を有する納税者基本権を付与しているものと解することはできない。・・他に・・実体法上の規定も見あたらない。」として、「法的保護の対象となり得る権利、利益」性を否定した。
 このことについても別に詳しく述べるが、裁判所が極めて表面的な解釈しかしないことによって、「国民全体の利益、幸福に運用」されない国の財政を見過ごしてしまう役割を果たしている。「一票の格差」にあらわれるように、一体、国会の議決がどれほどの国民の意思に基づいて処理されているのか。過半数の国民の意思に基づくことなく、ましてや国民と等しく税金を納めなければならない在日外国人の意思に基づくことなく、決定されてしまった国の財政によって、「国民全体の利益、幸福」が否定されようとしていることに対して、裁判所が果たすべき役割は何か、ということを憲法の財政民主主義の精神に立ち帰って考えるべきである。
 日本国憲法は、三〇条で「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う。」と納税の義務を規定している。このことは、単に国民は税金をむしり取られるだけの対象、ということではなく、「法律の定めるところにより」ということによって、《人々は、憲法で規定する規範原則に従って租税が使用されることを前提にしてその限度で、かつ憲法で規定する規範原則に従ってのみ納税の義務を負う。》ということを意味している。具体的に言えば、《福祉・平和の日本国憲法のもとでは、自分たちが納付した租税が憲法の意図する福祉・平和のためにのみ使用されることを前提にしてその限度で、しかも憲法の応能負担原則にしたがって(各人の能力に応じて)、納税の義務を負う。》ということが、「納税の義務」といわれるものの意義である。
 このことから、納税者が黙って税金を納める前提は、
ア 税金が憲法が意図している福祉・平和のために使われているかどうか。
イ 税金の額は憲法の応能負担原則に従って各人の能力に応じて決められているかどうか。
という二点に関わっていると言ってよい。
 その意味では、これら前提の限りにおいて納税者は「納税の義務」を負うという「権利」(納税者基本権)を持っている。すなわち納税者基本権とは、「憲法に適合する目的のために、かつ、憲法条項に従うのでなければ、租税を徴収され、あるいは自己の支払った租税を使用されない権利」「憲法に適合するところに従って、租税を徴収し、使用することを求める権利」である。
 日本国憲法は、このことを担保するために、国の財政は国民に由来するものであり、国民の意思に基づいて処理され、国民全体の利益、幸福のために運用されなければならないという財政民主主義の立場に立っている。この財政民主主義は納税者による財政コントロールの原則、つまり納税者による主権原理として存在している。
 憲法は、この納税者主権原理に基づき、八三条(財政処理の権限)、八五条(国費支出と国の債務負担)、八六条(予算の作成と国会の議決)において、国費は毎年度の予算の国会における審議等を経て国会の議決に基づいて支出すべきとし、八四条(課税の要件)において、租税の課税要件及び賦課徴収手続きは法律によって規定するものとしている。これは、財政議会主義といわれるものであるが、憲法前文が「国政は、・・・国民の厳粛な信託によるものである」と述べているように、納税者たる国民が代表機関たる国会に財政を処理する権限を信託したことに基づくものである。
 納税者は、財政の処理に関する権限を国会に対して無制限に、託しているわけではない。国会が最高法規である憲法に従い、納税者の福祉・平和のために働く限りにおいて租税の徴収と支出に関する権限を与えているにすぎない。したがって、国は、国会の議決さえあれば、どのような違憲の目的のためであっても租税を徴収できるとか、一旦徴収された租税はどのような目的にも使えることができるということは、絶対に許されない。国は、憲法によって示された信託の趣旨に従って、租税の徴収と財政の支出に当たるべき義務を負っているし、納税者には、国による租税の課税・徴収と国費の使用が憲法に従って行われるべきことを求める権利がある。
 この「憲法によって示された信託の趣旨」は、憲法二九条の財産権との関連においても考慮されなければならない。
 憲法は資本主義経済体制を前提としているので、二九条一項が「財産権は、これを侵してはならない。」と規定するようにかなり重い人権性を付与している。しかし、この財産権は神聖不可侵な絶対的自由権ではない。二項で「公共の福祉に適合するやうに」と規定するのは、財産を生存に必要な生存権的財産と、投機的財産と資本的財産のような非生存権的財産に分け、前者については今日なお補償されなければならない権利として、後者については現代市民生活における人々の生存権を補償するためにむしろ制限されるのもやむを得ないものとすることを前提としている。そして、三項の補償規定は、財産権の制限に対して人々に特別犠牲を要求する場合にのみ、生存権的財産に対しては「完全な補償」を、非生存権的財産に対しては「相当な補償」をという具合に適用されるものである。
 ところで、納税者が支払う租税は、納税者の応能負担原則に基づいた直接税中心の税体系の中では、所得(財産の取得)に対して課税されるものであるが、その意味では人々の生存を確保するために、つまり「公共の福祉」のために制限される財産と解することができる。このような財産権の制限に対しては、生存権的財産に対する「完全な補償」か非生存権的財産に対する「相当な補償」かその違いはあるものの、「正当な補償」が行われなければならない。もっとも、制限される財産たる租税に対する補償は、一般の私有財産権の制限に対する金銭や代替物による補償と違って、正当な財政支出によって補償されるものである。その中でも、生存権的財産の制限としての租税に対しては、その代替物としての、厳密な意味で憲法適合的な平和・福祉目的の財政支出によってしか、完全に補償されない。
 このような立場で、納税者と国との権利義務関係について考察するなら、財産(特に、生存権的財産)権の制限としての租税は、憲法前文で「国政は、・・・国民の厳粛な信託による」とした「信託」との関係の中で理解しなければならない。その意味では、財産権の制限としての租税の支払は、「財産権ノ移転其ノ他ノ処分ヲ為シ他人ヲシテ一定ノ目的ニ従ヒ財産ノ管理又ハ処分ヲ為サシムルヲ謂フ」とする信託法一条でいう「信託」そのものの性格を有している。すなわち、多くの納税者は自らの生存権的財産の中から身銭を切って国に対して租税を支払っているのであり、それは憲法適合的な財政支出が行われるという補償、言い換えれば「信託ノ本旨」(信託法二〇条)に従って国政が行われるからである。
 この場合の「信託ノ本旨」とは、日本国憲法の諸規定、とりわけその根本規範を為す国民主権主義、平和主義、基本的人権の尊重であることは明かである。さらに、憲法条項中に存在する、主権者であり、納税者である国民から政府に向けた国費支出に関する明確な禁止命令であり、その一つが憲法第九条である。九条の趣旨は、前文が「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、・・・この憲法を確定する。」とあることに照らせば、国民から国・政府にあてた戦争や武力の行使の禁止命令であり、軍備保持の禁止命令である。
 そして、民事上の信託と同様に、憲法上の信託にあっては、受託者であり同時に受益者である納税者は、少なくとも憲法九条のような特定の憲法上の禁止規範に違反した国費支出に対して、自己の納税者基本権が侵害されたとして、信託法の類推によりその違憲確認を求めて提訴することができ、あるいは損害賠償を求めることができる。このように、納税者基本権は、納税者の期待する福祉・平和が正しく達成されることを確認し、支払った租税があらぬことに浪費され、あるいはそれを越えて納税者の生存まで脅かすことのないことを確保するために、納税者に当然認められた基本的人権である。  ともあれ、日本国憲法は納税者の信託に基づく財政議会主義を採用して財政処理をしているが、それはあくまで、憲法の福祉・平和・応能負担という原則を踏まえて行われるべきことをあらかじめ予定してのことである。その意味では、憲法の意図する財政議会主義や財政民主主義は、租税国家における納税者基本権を保障することを目的としている。
 しかし、憲法制定五〇年を経過してそれら諸理念は、かなりの部分で変節を余儀なくされてきている。その変節は、違憲の不公平税制、違憲の不公平税務行政、違憲の租税の使用として立ちあらわれているが、それは間接民主主義を通して福祉・平和という憲法理念を実現していくことが困難となってきていることのあらわれである。
 企業からの政治献金を中心にして政治資金を獲得する多くの政治家は、主権者たる納税者よりも企業の方を向きがちとなり、住専問題に対する大蔵行政や薬害AIDSに対する厚生行政等にみられるように、国民の福祉よりも企業の利益を優先させる施策を納税者の租税によって行うようになってしまっている。また、日米安保・自衛隊にあらわれる国の「防衛」問題を、憲法の不当な解釈によって平和理念をねじ曲げ、今や社会保障費よりも高い対前年度伸び率で防衛費を支出している。それも、財政法四条で禁じている赤字国債の乱発によって。そして司法もそれを追認し、チェックする義務を放棄してしまっている。これらが作用してこういう事態になってしまったと思われる。
 もちろん、憲法は、国民が参政権を行使することにより議会制民主主義の過程で違憲・違法な支出を防止することを期待していることは言うまでもない。しかし、そうした期待は、納税者よりも企業の方に顔を向けている政治によって完全に裏切られているし、国政選挙の投票率の低さにあらわれるように、納税者もその現実を十分すぎるほど承知している。
 その結果、憲法の変節状況は、憲法理念を誠実に追求したいと願う一人ひとりの納税者にとっては、自らの支払った税金がその「願い」に反して、福祉・平和以外の目的にも使われてしまうことになり、結局、納税者基本権を「主観的に侵害」されることになってしまっている。このような主観的権利侵害に対して納税者は、「納税者基本権の存在は認めることはできない」とする原判決のいうとおりとすれば、司法的救済を求める術を失い、納税者は「私払う人、あなた使う人」という一方的に為政者に奉仕する存在にしかならない。
 しかし、憲法が柱とする財政民主主義はそんなことは許さない。一見して明白に違憲の目的で支出するために租税が徴収され、あるいは予算支出される場合、納税者は、自らの主観的権利としての納税者基本権に基づいて司法的救済を求めることができる。納税者はその租税徴収行為を拒否し、あるいは予算支出行為の違憲性の確認を求め、事後的に損害賠償請求を行うことができる。更に、その予算支出行為の違憲性が重大で、憲法の根本原理であり憲法の生命線ともいうべき原則を外観上一見して明白に侵害する場合には、その支出行為の差し止めを求めることができる。これは、憲法前文及び憲法の基本原理、その下での財政民主主義を定めた諸規定から導き出される納税者主権原理、並びに憲法第三〇条によって納税者基本権が実定法上保障されているからである。
 前項で述べたように、現在のPKO等をめぐる状況は一体何なのか、ということを実態に即して判断し、その事実が「国民全体の利益、幸福」に合致しているのかどうかを判断し、その上で、財政民主主義のあり方の判断をすべきである。そういうことを全くしないで、一方的に表面的な解釈で事足れりとする原判決は、司法が行政・立法をチェックするという自らの責任を放棄しているという他はない。


第二 PKO等協力法の違憲性

一 憲法第九条違反のPKO等協力法

 国連平和維持活動等協力法(以下、PKO等協力法という)の最も主要な目的は、国連平和維持活動(以下、国連PKOという)のなかの平和維持軍(PKF)を主体とする軍事行動に自衛隊を参加させることにある。
 「武力による威嚇又は武力の行使」を禁じた憲法第九条に違反するのは明らかである。国連PKOは、国連編「ブルーヘルメット」によれば次のように定義されている。「平和維持活動は紛争地域の平和の維持もしくは回復を助けるために国連によって組織される軍事要員をともなう活動であるが、強制力をもたない」具体的には「停戦を監視、維持し、兵力撤退を援助し、対立する軍隊の間に緩衝をもたらすために用いられた」活動であり、軍事活動以外の何物でもない。
 また、国連PKOは、通常、(1)平和維持軍、(2)停戦監視団、(3)選挙監視の三つ に分類整理されている。この内、(2)は通常は非武装の軍事要員によって構成され、(3)は主として文民によって構成される。
 PKO等協力法は、この(1)平和維持軍に自衛隊を部隊として参加させるものである。(PKO等協力法第六条第六項ー自衛隊が部隊として行なう平和協力業務 は、三条三号のイからヘ(PKF本体業務)およびヌからタ(医療・被災民の救援・輸送通信など)、レ(政令で定める業務)とされている)
 実際に、本件原審のカンボジア派兵において、自衛隊は国連カンボジア暫定機構(UNTAC)の軍事部門である工兵部隊に参加したのである。
 もともと自衛隊の海外出動が、憲法に違反することは歴代政府や議会が表明してきたところである。自衛隊法の成立に際しては「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」(一九五四年六月二日・参院本会議)がなされ、政府も「国連に自衛隊を出して協力することは、憲法の上からも自衛隊の本質からも許されないこと」(一九五八年三月二七日、衆議院予算委員会での岸首相答弁)と答弁し、以後同様の答弁を繰り返してきたところである。
 さらに、国連平和維持軍への参加に絞っても、政府はつい最近まで「武力の行使をしてはならないという憲法九条のゆえに、国連平和維持軍への参加は困難」(一九九O年一一月六日衆議院国連平和協力特別委員会での工藤法制局長官)との立場を明確にしているのである。

二 矛盾した「PKO参加五原則」

 PKO等協力法の成立にあたって、政府は「PKO参加五原則」が守られるから、憲法違反にあたらないと答弁を繰り返した。
 「PKO参加五原則」は、(1)紛争当事者の停戦合意、(2)紛争当事者の受入れ合意、(3)活動の中立性、(4)以上の条件が崩れた場合の中断・撤収、(5)武器使用の制限、であるが、当初から矛盾に満ちたものである。
 (5)の武器使用は、PKO等協力法二四条三項で「隊員の生命又は身体を防衛するためやむを得ない」場合にのみ武器使用を自衛隊員に認め、しかも個人の判断でとしているが、平和維持軍が遭遇するような戦闘行為ー武力衝突においては、隊員個々の正当防衛を適用するなどは非現実的である。
 しかも、使用する武器は、自衛隊員については「小型武器」に限定されないのであるから、重機関銃から迫撃砲まで含む「装備」による戦闘行為は、正当防衛どころか「自衛」の範囲をも越えるものになる可能性が高いといわねばならない。こうした武器使用は、武力の行使に他ならない。 (一九九八年六月に成立したPKO等協力法改「正」では、武器使用を個人の判断から、「上官の命令による」ものへと重大な変更が行なわれた。部隊としての武器使用ー武力行使に踏み込むものである。)
 (4)の日本独自の判断による中断・撤収は、PKO等協力法六条および八条に「(停戦合意・受入れ同意が)存在しなくなったと認められる場合」に海外派遣の 終了や業務の中断を規定しているが、国連PKOーPKFの実際では、「停戦合意」が存在しなくなったと評価されることはきわめて例外的である。
 もともと停戦合意があるといっても不安定で、衝突があるからこそPKOが必要となるのであるから、攻撃や戦闘があるからといって撤収していたのでは、PKOの意味がないのである。
 こうした場合、日本だけが独自の判断で撤収することは不可能である。
 カンボジアの事態でも、自衛隊の派兵されている間に、現地で武力衝突が繰り返され、文民警察官らに犠牲者まで出していたのに、「UNTACが停戦合意は崩れていないとしている」からと、政府は撤収をしようとしなかった。
 自衛隊が国連PKOーPKFに参加する以上、途中の中断・撤退は不可能であり、本格的な戦闘ー武力行使は避けられないのである。

三 「PKF本体業務の凍結」の違憲性

 また、PKO等協力法は「PKF本体業務の凍結」の修正(付則二条)が加えられ、その強行成立が図られたものである。
 しかし、この修正は本体業務にかかる業務を削除するものでなく、暫定的に実施を延期しているものに過ぎないのであり、自衛隊が国連PKOーPKFの軍事活動に参加できるとするPKO等協力法の違憲性は変わらないのである。
 カンボジア派兵の実態では、武装した自衛隊員が、選挙支援の名目で「巡回」行為を行なうなど、凍結されている筈の「PKF業務」にも踏み込んだ。PKO等協力法がもともとそうした違憲な軍事活動を法構造として含みこんでいるからといわざるをえない。

四 まとめ

 このようにPKO等協力法そのものが、明白な違憲性をもつにもかかわらず、原審判決は、PKO等協力法には一切触れないで、ただ、「訴えの利益」の有無という形式的な判断を下しているのみである。
 自衛隊のPKO派兵は、本件原審のカンボジアからモザンビーク、ルワンダと続けられ、現在のゴラン高原PKFにまで至っている。その実態は、参加五原則違反や凍結されたPKF本体業務への参加などよりエスカレートした違法・違憲な派兵が繰り返されているのである。(詳しくは次回以降述べる。)
このような事態を是正するためにも裁判所が、PKO等協力法への明確な判断を下すことが要請されているのである。


第三 違憲審査と違憲確認請求

一 違憲審査制度の有名無実

憲法第九十九条は、その条項の中に、裁判官その他の公務員は、特にその名を明記し、この憲法の尊重と擁護の義務を規定している。
又、第九十八条一項は、憲法が最高法規であり、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他行為又は一部は、その効力を有しない、とある。
一九四七年、憲法訴訟制度が創設されて以降最高裁段階での、法律条項の違憲判断は、たったの四種五例といわれている。あとは、憲法判断を回避した判断、あるいは、部分的、限定的な合憲判断が累々と横たわるだけである。これまでに憲法を擁護するような判決がどれほどあったのであろうか。
特に、一九六九年の都教組事件で、奥野健一らの反対意見によって、政治に配慮する司法消極主義が一層顕著になった。この時の奥野らの反対意見は、「無限定のまま、問題の法規合憲判断を与えるべきである。」と主張したものであった。
こののちの二つの事件で、奥野ら、反対意見が多数意見となり、最高裁人事と相まって司法が国会と対決することがないように、十分配慮された判決が続くことになった。
違憲審査制も又、司法消極主義をとることにより、司法が立法府、行政府に最大の謙譲を表わしてきた。
一九五二年、付随的違憲審査権が定着したとされる「警察予備隊違憲訴訟」判決があった。判決から四十六年が過ぎ。違憲審査権は、ほとんど化石化してしまった。ひるがえってみれば、この事件の判決そのものに、多くの問題点が含まれていたことが見てとれる。 「わが裁判所が、現行制度上与えられているのは、司法権を行なう権限であり、・・・司法権が発動するためには、具体的争訟事件が提起されることが必要・・・・・・・最高裁は法律命令等に関し違憲審査権を有するが、この権限は司法の範囲内に限られる。」とあり、ほとんどの法律が、(司法の行政・立法府への配慮と謙譲と敬意により)違憲審査制と関係なく成立してしまうような裁判形態を確立しようとしていたように見える。いわば、違憲審査権の放棄を目指したのである。付随的審査制のみが日本の違憲審査制度であると宣言しているようでもある。
この判決の別な部分には、「なお最高裁が法律命令等の抽象的な無効宣言をなす権限を有するもとするならば、(1)何人も、違憲訴訟を最高裁に提起することにより、法律命令等の(2)効力を争うことが(3)頻発し、かくして、最高裁は、(4)すべての国権の上に位する機関たる観を呈し、三権独立し、その間に均衡を保ち、(5)相互に侵さざる民主政治の根本原理に背馳するにいたる恐れなしとしない」とある。
(1)について、最高裁といえど、憲法第三十二条の拘束は受けざるを得ないはずである。判決はこれを否定。(2)効力を争うのではなく、違憲か、否かの判断により、効力を有するか、しないかが決まるのであり、憲法八十一条は、まさしくその審査する権限について規定しているのである。(3)頻発するようであれば、それは、違憲性の強い法律、命令、規則、処分が頻発し、存在しているわけであり、そうした状況のほうが異常なのであり、へ理屈としか言いようのない論理である。(4)法令審査制が憲法に創設されたのは、明治憲法のもとで、「治安警察法」や「国家総動員法」、「治安維持法」等によって、憲法の権利、制限を無力化させられ、国の暴走を止められなかった反省からではなかったのか。アメリカの憲法審査制も「司法の優位」を目指したのである。(5)民主政治の根本原理が、人権とか、平等とか、自由とか、平和とかではなく、こんなところにあったのかと、いまさらながら驚きを隠せない。と同時に裁判官自らが政治に、へりくだり、追従している姿勢が、この判決に通底していることに気づかない無神経さも、又、又、驚きである。さらに、又、国民に対しては、異常に、抑圧的・権力的であることにも驚かされる。
今日、立法府(国会)は、ほとんど、司法の違憲審査権を気にすることなく、好き勝手に、違法な法律を制定できると考えているように見える。PKO等協力法の成立経過、内容からは、そう考えざるを得ない。
国民の司法に対する不信は、政治に対するほど顕在化していないようであるが、根底には、相当なものがある。特に、「憲法第九条にかかわる事件は訴訟を提起しても、無駄である」という見解は、まさに司法が五十年間にわたって、目指してきたものの結果といえよう。
要するに、違憲立法審査制に対する裁判所への期待は、国民の中に存在しないのである。裁判所の目標達成なのである。このことは、冒頭に掲げた憲法九十九条、憲法九十八条一項に、多くの裁判官が違反してきた証でもある。
実際、司法の場では、憲法八十一条の規定については、過去の論議であり、決着のついたものとして扱われてきた。
本件控訴の原判決でも、裁判官は原告側の主張は具体的な争い(平和的生存権、納税者基本権)を前提としていると、解しているようである(はっきりしないところもある)。しかし、原告側は、前提となるPKO等協力法に違憲性が存在すること、この法の成立過程に瑕疵があったことについては、縷々、主張してきたが、原判決は、このことについて一顧だにしていない。
ここで、強く主張しておきたいのは、憲法八十一条の違憲審査制度が、付随的審査制の立場をとったとしても、制度そのものが有名無実化していることである。仮に、実際に損害を受け、これまでの判例に沿った提訴要件が満たされたとしても、適用法規が違憲性の強いものであれば、よくても、憲法判断を回避した判決ぐらいしか、期待できないのである。悪ければ・・・・・。 PKO等協力法が成立し、カンボジアに、引き続くゴラン高原への自衛隊派遣は、今やPKFの領域に拡大している。
一方、違憲審査権の歴史は、司法自らの手で、いかに空洞化させるか、いかに、行政・立法(政治権力)に奉仕する態勢をつくるかであった。すなわち、違憲審査権を有名無実化することであった。

二 違憲審査制度と憲法訴訟

日本の違憲審査制度は、現憲法が制定されると、同時に創設されたものである。したがって、アメリカ合衆国型(非集中型、司法審査型)として出発したであろうことは、大方の認めるところである。
アメリカ型の違憲審査制は付随的審査制であって、日本の司法の嫌う抽象的審査制ではないといわれている。
しかし、今日、抽象的審査制でないアメリカ合衆国でも、違憲審査制は、憲法裁判制度と同じような効力・機能を発揮している。
もともと、違憲審査制が採用されたのは、アメリカ合衆国であり、その目的は、三権のうち、他の二権に比べ、著しく弱い司法の強化(司法の優位性の確保)にあったと、いわれている。
司法の特別な優位性には、アメリカでも、当然反対のあったところであるが、近代憲法が人権の最高規範とされるようになり、第二次世界大戦後の平和主義も含む憲法的価値の擁護・実現をはかるための制度となってきたのである。もっとも、背景には、議会に対する不信と司法に対する信頼が表裏一体としてあったとされている。
特に、社会主義国家の崩壊により、二大勢力対立構造が崩れた後は、非集中型(通常裁判所型、付随的審査制)と集中型(特別裁判所型、抽象的審査制)が、人権保障という点で、重なり合い、違憲審査制革命といわれる事態が進行しているといわれている。
そこでは、違憲訴訟の適格性などの訴訟要件を、ゆるやかに判断することで、間口を広げてきている。その結果、付随的審査制度も、先に述べた憲法裁判所制度(抽象審査制)と同機能を発揮することになったわけである。そして、この革命は、世界的にも、独裁制の崩壊や、共和制への移行といった政治形態の変化により一層進行している。一方、ヨーロッパ型(大陸型、憲法保障型)といわれる抽象的審査制も、憲法秩序維持を目的としながらも、基本的な部分で、憲法を人権保障規範としているから、権利救済型ともなっているのである。

三 日本の違憲審査制

日本の裁判所、特に最高裁は、一九四八年、憲法八十一条を「米国憲法の解釈として樹立させられた違憲審査権を明文をもって規定したもの」とし、「警察予備隊訴訟」判決で、現在に至る違憲審査制態勢を確立したのである。
しかし、この判決は一九五二年のものである。この間、世界の司法の趨勢は、革命といわれるような変化を遂げている。
もっとも、日本の違憲審査にも、初期は、抽象的審査も可能であるという解釈があったようである。このことを含めても、今や、抽象的審査制か付随的審査制かの二分法的論議は、あまり意味がないように思える。
 現実に、明らかに違憲である法令が提起される事態が多くなりつつあるところから(今後も増えるとみるのが自然であろう。)日本の司法も、硬直化した思想を捨て、人権の最高規範性、人権の最優位性に基づく、新たな発想の違憲審査制度を追求すべきであると控訴人らは主張する。
原審、最終準備書面(その三)、第七、「違憲確認訴訟の適法性について」の、「給付命令の前提である違憲・違法行為による、基本権の侵害の確認こそ、真に司法裁判所に求めいるものだからである。………… 司法裁判所による憲法違反の国家行為に対する創造的救済を求めている」(三三頁)が控訴人らの真意なのである。
戦後、日本の司法が無批判にとりいれたとされる、アメリカ型違憲審査制の本家本元のアメリカでは、「”政治問題”というような、司法審査回避を要求する原則など存在しえない」とか、「憲法問題は、その解決に十分な程度の具体的方法で、提起されるべきという条件だけで、充分である」等の意見反映してか、かつて、憲法判断を回避した判決が、否定されたり、覆えされたりする判決が多くみられるという(横坂健治著「平等権と違憲審査」二一○頁)又、日本の奥平康弘は、”「政治問題論」による司法審査不可能という聖域論は、「成立する余地がなくなりつつある」”(法律時報臨時増刊「自衛隊裁判」七三頁)と指摘している。さらに横坂健治は、先述の著書で、「アメリカの憲法訴訟は、立法などによって、間口を広げられているから、そのまま、日本の憲法訴訟に適用できると考えることはできないが、少なくとも事件性要件を、あまりに厳格に、解することは、司法の憲法上の役割を否定することになるという点は、我が国の場合にも言えよう(前出「平等権と違憲審査」二一一頁)」と遠慮がちに述べている
このように、日本とアメリカの違憲審査権の実態は、まったく相違する。
日本の裁判所は、本件原判決のように、事件性要件を極端なまでに狭めて、厳格、限定解釈をすることにより、いわゆる「門前払い」によって、憲法判断を回避するのが一般的である。
日本の違憲審査制が審査判断原則論を取り入れて以降、アメリカの司法の変容に、目をつぶりつづけていることについて、アメリカの審査制の『つまみ食い』、と揶揄されても仕方がないところである。
世界の趨勢をよそに、一人日本だけが、憲法判断を回避する方向をとりつづけることは、もはや、許されない状況にまで来ているとみるべきである。それ故、控訴人らは、先述したように”創造的憲法判断”を求めているのである。
本件の核心は、憲法が明白に禁止している事項についての判断を求めているのであり、訴訟要件のみに拘泥し、入口論で判断すべき領域ではないからである。
本件の判断には、少なくとも、次の四項目程度は、原則的に、適用されねばならないと考える。
(1) 憲法の基本原理に対し、重大な違反がある場合。
(2) (1)の結果、国民の権利の侵害、及び侵害の恐れがある場合。
(3) 憲法判断をしないまま訴訟を終結させたのでは、事件の根本的解決に至らない場合
(4) (1)〜(3)の状況の場合、(裁判所は)「その国家行為の憲法適合性を審理判断する義務あるといわなければならない」(一九七三・九・七・札幌地裁)
 そして、控訴人らは、「かかる状況の中でも、憲法判断回避した場合、もはや、司法権を放棄したものといわなければならない(前出、「平等権と違憲審査権」一七一頁)に全面的賛意を表するものである。

四 政治(行政・立法)におもねる司法と違憲確認

控訴人らが確認を求めているのは、自衛隊のカンボジア派遣の違憲性だけではない。
仮に、控訴人らが日本の裁判所が違憲審査性の判断の基本としてきた付随的審査制的立場に立ったとしても、過去の違憲確認訴訟とは異るものであることを主張したい。
最も適当な例として、衆院定数訴訟を上げることができる。
この訴訟事件の特徴は最初に議員定数が定められた時点では合憲であったはずであり、後に、違憲状態になったところにある。その違憲状態を立法府が放置してきたところに第二の特徴がある。この限りにおいて、立法府の責任はまぬかれない
本件訴訟の場合、まずPKO等協力法ありきであったが、それに先行して、政権担当政党内部に、強い自衛隊の海外派遣願望があり、湾岸戦争時の掃海部隊の派遣の失敗の反省を踏まえ、法規の制定をまず行ない。その上で、自衛隊のカンボジア派遣を行なったものである。これら国の行為は違憲を承知したもので、いわば、確信犯といえるものである。
 これを、アメリカ型付随的違憲性の具体的事件の当事者となることができるための事件性の要件に、昭らしてみると、
(1)国が明らかに違憲である法律(本件の場合、「PKO等協力法」)を制定したこと。
(2)さらに、違憲立法である「PKO等協力法」に基づいて、自衛隊のカンボジア派遣を行った。(同じ法律にもとづいて、ゴラン高原PKF派遣も行なったこと)
(3)自衛隊がカンボジアで、行なった活動、等、
すべて事件性の要件を満たしている。
権利、義務関係の面では、国民の基本的権利が侵された。すなわち、国の行為によって、国民として、当然享受すべき基本的権利を侵害された。このことが事件性を惹起したのである。
 原判決は、これらの点をまったく無視し、「権利・利益がなく、単に国民として、納税者として、違憲確認を求めているにすぎない。国の行う具体的国政行為の是正を求める訴えは、法律上例外的なものを除いては、認められない。」とした。
この判決は、
(1)事件性と当事者適格性をゴチャ混ぜにしているか、当事者適格性のみによる判断なのかはっきりしない。もし前者であれば、事件性のない理由を述べなければならないし、もし後者であれば、事件性についての判定を行った後に、当事者適格について、判断を下すべきであった。
(2)被告国の主張を丸のみにした上、手続き要件の間口をほとんど閉じることにより、明らかに違憲なPKO等協力法、及び違法な自衛隊カンボジア派遣の違憲審査を回避したものである。この判決の主旨に沿えば、国は、どのような違憲立法、違法行為をしようと、国民には、それを止める手段を持ち合わせないことになる。この判決は先述した、第三の一、又は、二で主張したような、世界の司法の現況に、背を向けた。日本の司法の独善的な判断であり、国民の基本的な権利(裁判を受ける権利も含め)の侵害である。
(3)訴訟人らは、国の国政行為の提正ではなく、違憲行為そのものを問うているのであり、それによる損害の賠償を求めているにすぎない。裁判所が違憲審査行い、違憲判断をするのは当然のことである。
又、原判決は、自衛隊のカンボジア派遣は過去のことであって、現在の権利、又は、法律関係に関わるものではないから、確認の利益を欠くものとして、確認訴訟としても不適法である。として却下している。
このような判決によって、現在も、違法なPKO等協力法をよりどころに、ゴラン高原へ武器を携帯した自衛隊の派遣が続いており、装備も拡大してきている。
 これは、時間の経過を理由にして、憲法の実体判断を切り捨てたことになる。
 すなわち、限定された期日の経過により、違憲確認の利益性がないこと、法律関係も関係性がないとの理由立てにより、違憲判断を拒んだものである。このような論理が通用するなら、時間との競争になり、一般論としてもほとんどの場合、(裁判を長引かせる等によって)、権利救済の可能性がなくなってしまう。
 この判決は、余りに訴訟手続論、技術論に偏った判断であり、訴訟の本質から乖離した、違憲、憲法判断以前の問題であり、当然取り消されるべきものである。
日本の裁判所が、特に、戦争と平和に関る憲法条項については、訴訟の間口をほとんど閉じてしまい、入口のところで、シャット・アウトしてきた歴史は、すでに述べたし、裁判官自身が誰よりもよく知っているところである。
実態として、司法としての機能を、義務を、放棄してきたことについては、当然のごとく、多くの批判がある。
一例として「日本の裁判所、とりわけ最高裁は、窓口論においても、実体論においても、司法消極主義的傾向を示し、憲法保障機能も、そして、司法権の役割自体についても、十全な自覚的対応をしてこなかった」(前出「平等権と違憲審査」一八二頁)
「不十分な論理に基づく憲法判断回避は、事なかれ主義な司法権放棄として、批判される必要がある。」(同前一七五頁)
 さて、最後に、本訴訟の訴訟要件についてであるが、これまで述べてきた観点からは、
(1)当事者適格性、(2)訴えの利益性については、原審、原告最終準備書面(その四)四十頁〜四三頁で、充分満たされている。
ほんの少しだけ、要件の間口を広げにみれば、憲法訴訟の本来性、違憲審査制の設定理由に立ち帰れば、充分すぎるほど満たされていると、確信するものである。
ただ、日本の司法が、「戦争・平和」に関わる部分で、絶対に何が何でも違憲判断をしないという強固な意志を前提として持っているとすれば、どのような訴訟形態をとろうと、どのような訴訟をとろうと無駄である。
控訴人らが本件控訴事件の前に提起した「戦費支出による平和的生存権侵害に基づく損害賠償請求事件」の最高裁判決(平成九年(オ)第六五四号)は、その一部で次のように述べている。「(上告人らの)論旨は独自の見解に立って原判決を非難するか、又は……」。これは先に述べたように、現在の日本の司法が、世界の司法の趨勢からいかにかけ離れているか、いかに日本独自の見解に立っているかを端的に示しているのである。とかも裁判官全員一致という形で。
 この最高裁判決に至る名古屋地裁・高裁の審理経過・判決や、本件・原審の裁判所の判決をみると、裁判所は「戦争や平和に関わる訴訟は提起しても無駄である!!!」と、控訴人らに、強く知らしめようとしているように見える。そういう意味で、控訴人らは、逆説的に言えば、このような司法の実態、すなわちその硬直性、そしてなによりも、司法自体の憲法軽視を、憲法の不遵守を、広く、日本に、世界に知らしめたいと願い、控訴したものである。
 日本の司法府は、歴史の審判に耐えうるであろうか。


全国の類似訴訟インデックスペ−ジに行く