[市民平和訴訟の会・東京]剣持一巳講演録(4)
湾岸戦争以降の憲法状況(1997.1.26 鹿児島)
剣持 一巳(軍事評論家)
ご紹介のあずかりました剣持です。きょう、私の話は湾岸戦争以降の憲法状況についてということでありますが、その前提について、いくつかの点をお話し申し上げたいと思います。湾岸戦争以降ということで、ある意味で歴史的区分ができるのではないか。東西冷以降の地球上の安全保障の問題と言いますか、こういった問題を考えるときに、そうした歴史的区分が可能ではないかとは思いますが、もう一つ、考えなければいけないのは、「断続と連続」の二つが歴史の中に存在していると思います。したがって、この両面を見ていかなければならないというのが、私のきょうの話の前提になります。
話の冒頭として、私はいつも憲法の問題と言いますか、戦争と平和の問題を考えるときに、薩摩と地というのは、ある意味では日本の近代史が始まった所、最初の原動力になった所であったことを、薩摩の方々だったら知っておられるものと思います。私は東京生まれの東京育ちでありますが、いつも祖父から聞かされていた薩摩の話が二つあります。一つは、私の祖父が日露戦争の時に従軍したときの上官が薩摩出身の人でした。下士官だったと思いますが、私の祖父は一兵卒として下士官のもとで働いたと言いますか、下士官付きの兵卒だったということですが、日露戦争の従軍中のある時、上官である薩摩出身の軍人の靴を磨いていたそうです。ところが、その靴を十分磨かず、泥がついていたということで、何かの拍子にその上官が私の祖父に向かって、その泥をお前の口で洗えというふうに言ったそうです。そうしたら、私の祖父は頑固者ですから、口で上官の軍靴の泥をのみ込んだときの悔しさを私に伝えました。
そういう嫌な印象と同時に、好ましい話も聞かされました。薩摩の出身者たちは多くの場合、警察官になりました。明治の東京の警察官の多くが薩摩出身でした。だから、江戸っ子にとっては、占領軍と言いますか、新しい支配者でした。その意味で、乱暴狼藉というものが、かなり日常的に行われていましたが、同時に、上野公園に西郷さんの銅像が立っていることで示されているように、薩摩軍というか、倒幕軍が占拠する前に無血開城しているわけです。勝海舟と西郷が話し合って、幕府軍が解体するなかで、一部彰義隊が残り、上野で「彰義隊戦争」を起こすわけですが、その過程の中で東京が焼けずに残った。その感謝の意味を込めて、上野の公園の東京を見下ろせる所に西郷隆盛の銅像が今日でも立っているわけです。一方では、江戸っ子にとって乱暴狼藉という存在でしたが、もう一方では、ある意味で東京を戦火から救ったたいうイメージがあります。「西郷伝説」の一つとは思いますが、そういうことがあったということですが、そのことをずっと考えると、今日の問題につながる問題があるのではないかという気がします。
一つは、薩摩が近代の歴史の端緒を開きました。その資金源として、沖縄に対する植民地支配をしてきました。1818年に当時の琉球国に薩摩軍が侵攻しましたが、昨年、大田知事が橋本首相と会談し、「代理署名」に応じると返事した直後に、私は沖縄を訪ねました。その時、本部町の今帰仁という所に行きました。そこには「今帰仁城」があります。日本のお城とは、ちょっと概念が違いますが、薩摩侵攻の時に、薩摩郡が今帰仁城を焼き払っています。その翌々日に那覇の琉球に侵攻している。私が行ってみて、よく分かりましたが、薩摩藩はある意味で対外的には植民地支配の本質を知っていたという感じを今日でもしています。その指導者たちが、明治維新の元勲となり、明治政府の骨格となり、近代日本を築き上げていったという面が、どうしても否めないのではないか。
さらに、旧幕藩体制とはいえ、植民地支配の凄まじさというのは、先島諸島に行きますと、薩摩が琉球を支配し、琉球王国は先島から搾取をしていましたが、「人頭税」を課していました。その人頭税の凄まじさというのは、明治時代まで残るわけです。波照間の話など、いろいろ直接見聞した話がありますが、たしか竹富島の浄土真宗のお寺に、当時の「人頭税」支配の民俗資料が残っています。薩摩の侵入を受けた琉球では、先島の石垣・宮古・八重山諸島に対して「人頭税」を課す。そして、琉球から派遣された代官によってその島を支配する。竹富島の民俗資料を見ていて、二つのことをいまでも覚えています。
一つは、人頭税(税金)を払えなかった人にどうするか。今、納税を拒否した場合、資産の没収・競売ということがありうるわけですが、当時は没収する資産がなかった。何が残されていたかというと、ムチなんです。ムチが何本も飾ってあった。払えなかった人を、ムチで叩いた。もう一つ、印象深かったものに、ほら貝がある。そのほら貝に穴が開いていた。「なぜ、穴が開いているのか」と聞くと、当時はほら貝を海につけて飼っていたそうです。そのほら貝が逃げないように穴を開けて、ヒモで結んでいたそうです。なぜ、ほら貝を海につけて保存したかというと、琉球から派遣される代官に「供用」し、ほら貝の料理を出すためでした。このように「供用」と徴税のための「ムチ」と二つのものがそろっている。支配者のためにご馳走をして、何とか「税」をまけてもらおうとしたのと、払えなかったときにはどうするか、二つの問題があった。
その「人頭税」の問題は、今日でもある種、共通する問題ではないかという気がします。凄まじい形態は今日、世界のいろんな国の中に構造的に仕組まれて存在しているのではないか。今日、われわれの社会の中にもそういう構造が存在しているのではないだろうか。支配と被支配の構造が、具体的に日本が近代国家になっていく過程で、先験的・経験的にもっていたのが薩摩であり、近代日本をつくっていく一つの前提条件になったのではないか。そういう気がするわけです。
その中で私が考えたいのは、歴史というのは今日も脈々と日本の近代国家の中に姿を変えて残っているのではないかという気がします。歴史というのは、断続的なものであるけれども、ある意味では本質的なところで継続しているという気がしてならない。戦争と平和の問題も、もっと具体的に考えてみますと、兵士と下士官の問題であったり、納税者のわれわれの権利の問題であったり、昔も今日も変わらない構造的な問題として存在しているのではないか。そういうことを話の前提として申し上げておきたい。
今日、その中で憲法の状況を次に話をしてみたいと思いますが、湾岸戦争以降というところに問題を絞ってみるならば、こういうことが言えるのではないか。1989年11月に東ドイツがベルリンの西側に自由に出国することを許可した。その5カ月前の6月4日、私はイキリスのニューカッスルにいました。ホテルに朝入った途端に、BBCが天安門広場で戦車に立ち向かう一人の青年の画像を映していました。その後、天安門広場の事件がどういう経過をたどるのか興味深く見ていましたが、そうこうしているうちに東ドイツが西側への出国を自由化し、ベルリンの壁の崩壊が起こりました。いまでも忘れないことの一つは、リトリア・ザトリア・エストニアのバルト3国の割譲について、スターリンとの間で独ソ不可侵条約の付属秘密協定があったことが新聞に出たことでした。私はイギリス人と「これは大変なことになるね。東西関係が大きな転機を迎えるね」と話したことを覚えています。それがベルリンの壁の崩壊につながりました。私は1990年4月にベルリンに行きましたが、その中で一番実感したのは、東ドイツの軍隊が崩壊していく現象でした。東ドイツにはソ連の駐留軍が50万人もいましたので、それが崩壊していく姿もみました。それがどういうところで分かったかというと、西ドイツの公園で軍服と記章と勲章が露天に並んで売っていたことでした。売れるものは皆、売っちゃおうということでした。
1989年12月3日の「マルタ会談」で、米ソ首脳が東西冷戦の終結宣言をして、それを前後してベルリンの壁が崩壊し、東ドイツが西ドイツに合併されていった。その時、私が一番感じたのは、軍事的緊張が解けるから、もっと平和な世界が来るのではないかという、ある種の期待感でした。そういう期待感を持って、1990年4月に日本に戻ってきましたが、その時、一番奇妙に感じたのは日の丸・君が代のことを新聞が盛んに言っていたことでした。そういうなかで、東西冷戦の終結が中東に及んだと思った。その時、イラクのフセインは、イラン・イラク戦争をやっている中で、外貨が不足し、国の経済が破綻寸前になっていたため、破綻から救うために石油を輸出しなければならないと思っていたのではないか。しかし当時、クウェートが大増産をしていたため、石油の国際価格が低迷状態にあった。したがって、イラクとしては何とか国際価格を上げないと、国の財政が立ち直れない状況にあった。それと同時に、アメリカは東西冷戦の中で中東には口を出さないだろう、という見通しを持ったのではないか。当時のアメリカのイラク大使は、フセインに対してイラクが中東でどういう行動を起こしても干渉しないというニュアンスのことを言ったらしい。当然、これはあとで問題になりましたが、1990年8月にイラクがクウェートに武力侵攻を行います。
この時、日本はどういう態度をとったか。1990年の8月から91年1月17日まで湾岸危機が続くわけですが、国連安保理は11月にイラクに勧告を出します。その内容は、1月16日以降、国連加盟国はイラクの武力侵攻に対して、あらゆる対抗措置をとれることができるというものでした。そして、1月17日に多国籍軍が空爆を始め、2月28日まで約40日間、湾岸戦争が起こります。この時の多国籍軍側の爆弾量は広島原爆の3倍という凄まじいものでした。1月17日に日本政府は、湾岸戦争の危機対策本部を設置し、18日には橋本蔵相(当時)が渡米し、「平和解決協力基金」と称する90億ドルの拠出を約束します。それ以前の90年10月段階で、「国連平和協力法案」が提出され、11月には審議未了で廃案になりますが、日本政府は湾岸戦争に積極的にコミットしていきます。私がイギリスやベルリンで見聞していたことと逆の事態が日本で進行していると率直に思いました。それは日本が戦争に傾斜したことであり、湾岸戦争で国際貢献を声高に言って、90億ドル(総計で 120億ドル)のお金を出します。戦費支出であると、われわれは裁判で主張しましたが、それと同時に、自衛隊の派遣を画策します。最初は、特例政令で自衛隊をヨルダンに送り、難民の輸送を計画しましたが、ヨルダン政府は拒否します。しかし、湾岸戦争終結後、4月17日にペルシャ湾に掃海艇を派遣します。大阪のグループは湾岸訴訟のなかで、ペルシャ湾派遣を違憲として訴えています。
ペルシャ湾に掃海艇を派遣したとき、独自にやったわけではない。6隻の掃海艇部隊はアメリカ海軍の指示と指令のもとで掃海地域を決め、掃海作業をしています。10月30日に日本に戻ってきますが、戦後最初の自衛隊の本格的な海外派遣であった。東西冷戦の終結がなぜ、自衛隊の海外派遣につながったのか。新しい東西冷戦以降の「新世界秩序」に、日本がどういう形でコミットしていくのかということがあったのではないか。従来のODAや経済的なコミットメント以外に、軍事的なコミットに日本が踏み切ったということではないか。その中で、法的な根拠を持たせるために、廃案になった国連平和協力法であり、91年11月に再度、「国際平和協力法」という出てきます。一度審議未了で継続審議になりますが、92年6月15日に成立します。当時、私は成立する現場にいまして、傍聴席で騒ぎました。社会党の国会議員が議長に辞職願いを出し、6月15日には衆議院の社会党議員が空席のまま法律が成立しましたが、国会の公式記録である「衆議院広報」には、辞職願いを出したという記録が残されていません。議長預かりになっていたというのが、表向きの理由で、どういう政治的取引があったのか分かりませんが、私はこの時から今日の社会党(今は社民党)の分解が始まったという気がします。
東西冷戦が終わることによって、日本が軍事的な貢献をするなかで、戦後、護憲を掲げてきた社会党が凋落し、崩壊の過程をだどりはじめる非常に象徴的な出来事ではなかったんだろうか。今日でも、強くそういう印象を持っています。なぜ、東西冷戦のなかで培われてきた自衛隊なり、安保が逆に終わったんだからいらなくなるという議論が起こらず、なぜ軍事的な影響力を持つような形で、日本が政策転換をはかったのか。湾岸戦争が停戦した同じ日に、アメリカの国防省は、「アジア太平洋地域の戦略的枠組み」という報告書を出しています。アメリカはなおかつ、10万人の兵力を東アジア地域に置くのが適当であるという報告書であり、95年2月17日に国防省が出した「東アジア戦略報告」のもとになるものが、湾岸戦争終結時に出ています。ということは、湾岸戦争とはいったい何だったのか。不明瞭ではありますが、アメリカが中東に干渉しないという感触を持つなかで、フセインが軍事的な冒険をした。それがクウェート侵攻であり、湾岸戦争につながった。そのことを利用してアメリカは世界の新しい戦略秩序を作り出そうとした。それが、今日の日米安保の再定義にまで結び付く新たな国際秩序を作り出す原因になった。
湾岸戦争のもう一つの見方をすれば、今日の東アジア戦略であり、日米再定義にもとづく原型を作り出すことになったが、本質的な流れは何だったのか、人間的に言うと橋本首相ではないかと思っています。橋本首相(当時は蔵相)がアメリカで90億ドルの支援を約束し、96年4月にクリントンとの間で、日米安保再定義が実施される。その流れが一貫している。日米安保再定義による軍事力の強化と日本における自衛隊による海外展開が一体となり、新しい国際秩序の方向に日本が動き出したということが、湾岸戦争をきっかけに起こった。そのことに従来の護憲勢力が対応できなかった。空中分解したというのが、実情ではないだろうか。
その中で、私たちの裁判はいったい何だったのか。国際的な変貌の中で、私たち自身が自分自身に問うてみるべきでしょう。簡単に言えば、「戦争は嫌だ」と言いますが、憲法9条の具現化を求める信条と言いますか、私たち一般の信条はそういうものであった。既成の政党や護憲勢力と言われた人たちではなく、私たち一般市民が「戦争は嫌だ」「そうはいかない」という声をあげたのが、この裁判だったのではないか。東西冷戦の崩壊していく過程とその後は平和になるはずだった。冷戦体制とともにできた、さまざまな世界的な仕組みは不要になるはずだった。しかし、そうはならなかった。いろんな政治的な経過のなかで、新しく変なものができた。これに対して少数ながら普通の市民が、裁判という方法で表現したということではないだろうか。単純に言うと、私はそういうふうに見ていす。
湾岸戦争の時に起きたのが、「市民平和訴訟」であり、国際平和協力法によるカンボジア派遣の時に、「カンボジアPKO違憲訴訟」であった。そして、私たちは今、「ゴラン高原PKF違憲訴訟」をやっているわけです。こうした一連の流れは、非常に素朴に言えば、平和への願いと言いますか、憲法9条を現実のものにしたいいう市民の気持ちを裁判という形で表現しているという気がします。
私が申し上げたいのは、湾岸戦争によって90年から96年に至るまでの6年間、いろんなことがありましたが、自衛隊の海外派遣が一般化したということが言えると思います。法的な根拠としては、国際平和協力法になりますが、自衛隊法の改定でそういう方向に動いています。たとえば、自衛隊法 100条に基づいて政府専用機が邦人救出ができるように改定されたり、自衛隊法99条に基づいて海上自衛隊がペルシャ湾に出動したり、自衛隊法の大解釈されたりしています。東西冷戦終結以後に、いわば自衛隊が常態的に海外に出て行く態勢が形作られたということだと思います。
もう一つは、日米安保再定義である。日米安保条約は、第6条に「極東条項」というものがあります。しかし、実際には極東条項が存在しない。湾岸戦争当時から問題にされたように、地球上のどこへでも、在日米軍が出て行くということです。たとえば、モンゴルの草原の大火災の時、沖縄から米軍がモンゴルに飛んでいる。湾岸戦争では、沖縄の海兵隊が最初に行ったり、台湾海峡の危機の際に、沖縄の海軍と自衛隊が警備配置につくような事態になったり、現実には日本とアメリカの軍事的な関係が密接な関係として出てきた。それは単に軍隊同士の協力ということだけでなく、資金面や作戦協力の面でも具体的なものとして出てきた。それを確認したものが、96年4月の「日米安保共同宣言」「日米安保再定義」であった。その際、共同宣言の前日の4月15日に、「日米物品役務相互提供協定」(ACSA)というものが結ばれました。これは、米軍に対して日本側が演習中に限って物品を提供するというものですが、条文をよく読んでみると、作戦中とか、演習中とは書いていない。解釈を拡大すると、作戦中でも使えるという印象を持っています。
二番目には、日米安保再定義の中で示されたものとして、「日米防衛協力のための指針の見直し」というものがあります。どういうふうに見直すのか、防衛庁が国会議員に配布するために作ったものですが、それも日米安保再定義、共同宣言で触れられたものです。簡単に言いますと、日米軍事協力をより一層強化したい。しかもそれは地域的な限界を取り払ったうえでの強化であるということが、二番目に言えると思います。
三番目には、自衛隊が海外に出ていく形と日米安保再定義の中での軍事協力強化の確認の中で、日本とアメリカの関係についてどういう位置づけをするのかということになると思います。図式化すると、日米安保ブラス自衛隊ということになります。それが一体となったときに、地域的な軍事力として位置づけることが日米の狙いだと思います。日米共同宣言の中で、両首脳が日本国民に呼びかけるメッセージを出していますが、その冒頭にこういう文句があります。「21世紀に向けて、アジア太平洋地域において安定的で繁栄した情勢を維持するための基礎であり続けることが、再確認された」と言っています。つまり日米安保条約と自衛隊は、21世紀に向けてアジア太平洋地域において繁栄と平和のための基礎であるということです。そのことは95年11月28日に「新防衛計画大綱」として閣議決定をしています。日本の防衛力の位置づけとして、防衛力は国の安全保障を最終的に担保するものである。防衛力を自衛隊という言葉で置き換えてみれば、自衛隊(軍隊)こそ、国の最終的な安全保障であるということを「防衛計画大綱」の最初に言っています。そのうえで、アメリカと安全保障体制を堅持すると言っている。「堅持」とは、維持するだけでなく、アメリカと堅く約束するという意味がある。
ということは、日米安保条約と自衛隊は、日本のみならず、アジアや世界の平和と安定のために貢献するためのものであるということです。シンガポールのアセアンの会議で、橋本首相は日米安保体制は、アジアの公共的な財産である、とまで言い切っています。これに対して中国やアジア近隣諸国は非常な警戒の目で見ています。ソ連の崩壊、社会主義国の崩壊が、重しのフタが取れたように、日本の戦略して世界的な軍事展開に発展しているわけです。自衛隊はアジアでも中東でも、どこでも行く。「世界の平和と安定のために貢献する」と防衛計画の大綱に記しているわけですから、そういうことができるわけです。ここでは憲法9条ははっきり吹っ飛んでいる。彼らに言わせれば、「憲法9条の枠内で」という言葉を使えばいだけのものになっており、憲法9条の枠内でとどめるという実態としての存在ではなくなった。文章の修飾上の形容詞というものになってしまったということではないでしょうか。私はそういう気がします。
最後になりますが、私たちはこの5年9カ月、何を訴えてきたのか。訴えてきたみんなの原告に確認したわけではなく、私の個人的な意見として申し上げます。戦後の憲法50年、いったい何だったのか、ということに尽きる問題だと思います。戦後の憲法50年というのは、残念ながら一つの「虚無」ではなかったのか。私は20代から30代にかけて社会党の「軍事問題研究会」というところに所属し、そのへんの内実はよく分かっていますが、虚無であった。いまから考えたことであり、当時の私はそれほど自覚していたわけではありませんが、みなぎしさんとう農林関係の労組の委員長だった人が、護憲連合の議長をやっておられました。その方はしょっちゅう昼寝をしていた。ある人が昼寝をしているみなぎしさんの背中に荷札を付けました。その荷札には「果報は寝て待て」と書いていました。「果報は寝て待て」というのは、一種の皮肉でしょうが、私は今、そのことをしきりに思い出します。憲法50年、護憲連合が「憲法を護ろう」と言い続けてきたけれども、その結果得た果報は何であったのか。「寝て待った果報」は何であったのか。それは先程申し上げたことに尽きるわけです。
私たちの「憲法裁判」というのは、過去50年の護憲運動の継承であると同時に、断絶でなければならないというのが、私のいまの気持ちです。平和的生存権なり、納税者基本権にしても、私たち自身が新たな国民的権利として憲法上認められているんだと訴訟の中で主張してきました。一つの主張として私はそれなりの意義と価値があると思っていますが、それだけではダメだということだと思います。その中で、私たち自身がダメだったというところから再出発が求められているように思います。この「再出発」とは、何だろうかと考えてみた場合に、私が一番最初に申し上げたようなことに戻らざるを得ないという気がします。それはどういうことかというと、歴史の継続性という問題であり、もっと平たく言えば、私たちが今日存在し、生きていくことの意味というのは、いったい何んであるかということだと思います。私たちは「平和に生きたい」という素朴な感情を具体的な形で実現していない社会に対して、どう抵抗していくのか。その抵抗を続ける姿勢こそ、私たちは憲法9条を実現する姿ではないのか。少数派でしかない私たちが、そのことを徹底的に自覚することによって、私たちが平和に生きていくという意味を徹底的に自覚することによって、新しい世界を切り開く先鞭になりうるであろうという気がします。
もう一点、最後に付け加えさせていただきますが、憲法9条が今日まで継続してきたのは、自衛隊・安保・沖縄があったからだという論理です。つまり、日本が平和的に守られてきたのは、憲法ではなくて、その周辺にあったものだという言い方が今日出てきています。その最たるものが、防衛計画の大綱に見られるように、「国の安全保障の基礎は軍事力しかない」とまで言い切った現実を前にして、私たちは今、憲法の価値をどういうふうに見ますか。もっと言うならば、歴史の継続性というか、私たちが生きていく意味というものを、何かと向き合って、どう問うていくのか。この姿勢こそ今、求められているのではないか。ということが、私たちが訴えたい姿ではないだろうか。
それがきょう、私が申し上げたい結論ですが、もういっぺん最後に触れさせていただきたいのですが、友田さんと小川さんの鹿児島での本人訴訟という難しい状況の中で、薩摩の地というか鹿児島の地でよく耐えて、ここまで来たもんだなあ、という感想を持っています。率直に言いまして、本人訴訟は難しいだろうから、すぐ結論を出して、すぐやられちゃうではないか、内心笑っていたんですよ。内心そう思いながら、何回かこの地に足を運びましたが、一番最後まで残ったんです。一番最後まで判決が残ったんです。ほかは皆、判決が出ています。私が思っていたことの逆になった。逆になったことの意味を今考えてみると、裁判のいろいろな経過なり、裁判所の都合があったんだろうと思いますが、大変意義深いものを感じます。それは訴える抵抗の思想や姿勢がきちっとはっきりしていたということではないだろうか、と思う。憲法理論という難しい理屈や理論がありますが、基本的な私たちの生きる姿勢と言いますか、抵抗の姿勢というものがはっきり見せていくことが、どんなに重要なのかなあ。そのことに裁判官も気持ちを動かされたのではないか、という気がします。
そう思うと同時に、きのう聞いた奄美の黒うさぎの裁判の話ですが、こういう裁判がまた成り立つのかなあ。あるいは鹿児島だからできるのかなあ、という気がします。黒うさぎといった動物が原告の適格があるのかどうかという議論があるようですが、私たちの現在の社会の構造のなかで、そういう形で裁判に訴えざるをえないというか、一歩も二歩も切り開いたのではないか。私たちも裁判をやるときには、本当に怖い気持ちがしましたが、それを踏み切ったときには、違う展望も出てきますが、その怖さと言いますか、それがやってみて段々怖くなくなる。そして、その姿をみた、ほかの人たちが裁判に訴えてやるという気になっていくというか、裁判をする権利が私たちの権利として根付くという、こういうものにもなってきたのではないか。
護憲50年の運動は虚無でなかったのではないか。しかし、私は虚無であったと自覚する半面、こういう裁判が闘えてきた、あるいはできたということの意義も等しく非常に大きなことであったと思います。私たちは自覚的にほんとうに少数派であり、この少数派こそ、ある意味では次の世代の方向性を決める一つのきっかけと言いますか、ヒントと言いますか、そんなに大きなことは言えないにしても、与えていくのではないだろうか。もし私たちがここで沈黙することによって、引き下がることによって、どういう状態が出るのかなあ。そのことを想像したとき、やっぱり引き下がれないという気がします。私は湾岸訴訟にも、PKO訴訟にも関わりながら、やはりやっていてよかったという結論です。裁判だから、いろいろ難しさがあります。しかし、もしやっていなかったときに、今日の事態を迎えてから、私たちの気持ちの中でのフラストレーションをどう処置していたのかなあ。どう処理をしていてたのかなあ、という気がいたします。
そういうことしか、私は今、申し上げることができませんけど、情勢は段々、私たちにとって不利になっていくということがあるにしても、私たちはこの裁判を続けてきた意義については、私たち自身が深い自覚と将来への望みと言いますか、希望を託しられるという自信を私たち自身に与えてくれた、私自身が私に与えてくれたのではないか。あるいは友田さんが友田さん自身に、周辺の方々に与えてくれたのではないだろうか、という気がいたします。まだまだ申し上げたいことはいっぱいありますが、一応私に与えられた時間になったようですので、湾岸戦争以降の憲法状況について締めさせていただきます。どうもありがとうございました。
◆市民平和訴訟全国交流会・鹿児島(県教育会館、1997.1.26)での基調講演
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